半村 良 およね平吉|時穴道行《ときあなのみちゆき》 目 次  およね平吉|時穴道行《ときあなのみちゆき》  幽タレ考  酒  収 穫  H氏のSF  虚空の男  組曲・北珊瑚礁《ノース・リーフ》  太平記異聞  およね平吉|時穴道行《ときあなのみちゆき》  生まれつき絵心にとぼしい私が、なんとなく絵画に関心を持つようになったのは、身辺に野田弘志とか山本貞といった優れた絵描きがいるせいもあるが、やはり長年デザイナーやカメラマンの群れの中で暮していたためだろう。しかし、江戸期戯作者の雄である山東京伝《さんとうきようでん》に、その文章からではなく絵画のほうから接近して行ったのは、コピーライターとしてはいささか筋違いだったようである。  もっとも、山東京伝の名前は学生時代に教えられて承知していた。だが特に江戸文学を専攻したわけではないから、その記憶はごく通り一遍で、黄表紙・洒落本《しやれぼん》の大家という程度の知識しかなかった。従って画工|北尾政演《きたおまさのぶ》が山東京伝であるという、ごく初歩的なことすら知らなかったのだ。  そんな私が或る時ジェイムス・ミッチェナーの『日本版画』のページをパラパラとめくり、北尾政演の『新美人合自筆鏡』に行き当った。シビレル……と冗談に言うが、その時私は理屈抜きにシビレてしまった。どうも知るということと、判るということは別物らしい。錦絵や浮世絵のたぐいを知ってはいたが、この時突然私にそれが判ったらしい。色感が豊かで構成が緻密《ちみつ》、だいいちバランスのとり方が今のイラストレーターやグラフィックデザイナー達のセンスと同じなのだ。悪い癖で歌麿や北斎などという知れすぎた名だとテンから見向きもしないのが、少くとも私にとってはフレッシュな北尾政演という名を発見して、まるで昂奮してしまった。  その後『隅田川八景』や『金沢八景』、『奥女中・あさづま』など、北尾政演の作品の複製を探しまわり、とうとう松方コレクションの実物を見ないことにはどうにも承知できないほどになり、結局錦絵『山東京伝之店』を見るに至って、はじめて北尾政演と山東京伝が同一人物であることを知ったようなわけである。  調べて見れば何のことはない、天明元年に四方赤良《よものあから》こと大田|南畝《なんぽ》大先生の著した『菊寿草《きくじゆそう》』には、当代の画工として、北尾重政、鳥居清長、北尾政演の順で挙げられている。この頃葛飾北斎は是和斎《これわさい》、喜多川歌麿は北川豊章の名でやっと黄表紙などに描きはじめたばかりである。北尾政演の名手を識った私は、ざっと二百年ばかりズレていた勘定になる。  そういうわけで、昭和三十年代の後半から、私と山東京伝の奇妙なつながりがはじまったのである。  京伝の住いは銀座であった。姓は岩瀬、名は醒《せい》、通称を京屋伝蔵と言い、京屋伝蔵がつまって京伝。今は京橋と銀座が別のものになってしまったが、本来銀座は京橋の一部。安永二年、京伝十三歳の時に京橋南詰新両替町二丁目へ移り住んで、以来歿年までそこに暮した。新両替町は銀座である。もっとも、その住所が銀座二丁目であったか一丁目であったかは、史家によって定まらないでいる。私にとってはどうでもいいことで、二百年後のファンとしてそのあたりをうろつけるだけでも嬉《うれ》しいのだ。  そしてそのあたりをのべつうろついた。広告業界で生活していると、どうしてもそうなってしまうのだ。広告主も広告代理店も媒体側のオフィスも、みんな銀座辺に集中していて毎日毎日が銀座でなければどうにもならないのである。そして二百年後のこの京伝ファンは、手前勝手に京伝とは随分因縁の深い仲なんだなアと感じたりしたものである。  本格的に銀座へ出入りするようになって、もう何年になるか……。勿論《もちろん》銀座生まれの泰明《たいめい》小学校組には及びもつかないが、私が生活のために銀座へ足を踏み入れたのは、まだ敗戦という語感が生き生きしていた朝鮮戦争の頃である。オフ・リミットと白ペンキを入口にこすりつけた店々がやたらにあって、尻《しり》の肉の盛りあがった進駐軍の兵隊が、その尻ポケットを札束で膨らませて闊歩《かつぽ》していた時代だ。二丁目の西側……丁度《ちようど》小町屋の裏手に当る酒場で、私は人生修業、いや色修業酒修業欺し修業に欺され修業……以来十有余年夜となく昼となく銀座を出たり入ったりし続けて今日に至っている。  いろいろ調べている内に、その二丁目の向う側の家並み……松屋の並びに京伝一家の最初の住いがあったらしいと判ってからは、何やら他人とは思えなくなり、いっぱし京伝の研究家ぶって書物|漁《あさ》りに精を出した。  馬琴が憎い。……そう思うようになった。調べれば調べるほど馬琴という奴は嫌な男で、北尾政演の麗筆とは月とすっぽんの下手糞な絵を臆面もなく書きちらし、無類の悪筆家で馬琴日記の研究者を手こずらせ、知ったかぶりの考証だくさんで紙数をかせぎながら、こけの一念|弓張月《ゆみはりづき》でとうとう名を文学史に留めてしまった。しかも匿名で『伊波伝毛乃記《いはでものき》』なる悪意に満ちた京伝の伝記を書き、後世京伝の名声を少なからず損うことに成功している。……京伝の弟子のくせに。   なき人の昔おもへば かぎろひの    いはでものこと 言ふぞかなしき  伊波伝毛乃記のいはでもは、この一首から出ている。匿名にしてもすぐに馬琴と知れるように書いてあるところがいっそう憎い。寛政二年秋、「深川|櫓下《やぐらした》の滝沢倉蔵と申します。是非とも門人にとりたてていただきたく、お願いにまかり越しました……」と酒樽一本手土産に、卑屈な顔でねばり抜いた馬琴が、どの面さげて師匠京伝にたてついたのかと思えば、京伝の世に逆らわぬ粋な生き方を知るだけに、憎くて憎くてドブの中へ叩《たた》き込んでやりたくなるような気持になる。  伊波伝毛乃記は多くの学者によって確実に馬琴の筆になったことが解明されているが、その文中京伝の絵は大したことがないと断言しているのだ。作品が残ることを勘定に入れなかったのだろうか。 「京伝狂才あり、然れども書を読むを嗜《たしな》まず。弱冠の時日日堺町に赴きて長唄三絃を松永某に習ひしが、その声清妙ならずをもつて羞《は》ぢ、これを棄てたり。その頃より北尾重政を師として画技を修めしが、画もまた巧みならず。……しきりに売色を好みて吉原町に通ひ、家に在ること一ヶ月に五、六日を過ぎず」……よくそんなことが言えたものだと、馬琴が私と同時代人でないのを感謝したくなる。  つまり馬琴は都会児京伝をまるで理解できなかったのだろう。この時代勉学とは即ち読書である。人にガリ勉を知られるのを恥とするセンスが馬琴にはまるで欠落していたらしい。歌舞音曲にまるで無縁で、ひょっとすると音痴だったかも知れない馬琴に、京伝の音楽的才能を評する資格があるとは思えない。画技拙劣はまるでそっぽもいいところで、当代随一の文化人大田南畝が折紙をつけているのに、それをくさすとは人一倍長生きして関係者が物故したあとの増長慢《ぞうちようまん》であろう。売色を好みて吉原町に通い……というが、今でいうならバーへ一歩も踏み入れたことのない偏屈人が、清廉気どりの説教臭でいっぱい、というところだろう。吉原を売色とひとことでかたづけるには、この頃の時代相は異質すぎる。むしろ吝嗇《りんしよく》にこりかたまって吉原のヨの字も知らない馬琴のほうが、時代人としては卑しまれるべきだったろう。馬琴日記天保十五年六月二十日の項に、庭の竹の幹から剥《む》け落ちた竹の皮を集めて売ったら、たった三十二文に買い叩かれたと口惜しげに記しているくらいのケチである。  京伝のほうは理財の法もスマートだ。長崎の料理人に教わって弟の相四郎、のちの山東|京山《きようざん》に江戸で最初の天麩良屋《てんぷらや》をはじめさせている。天麩良のネーミングも京伝のアイデアである。また、画工、デザイナーとしての腕を生かし、ピーター・マックスばりにいろいろな小道具類にデザインをほどこして小間物屋で稼いだり、染色図案集を出したりして粋な儲け方をしている。特筆すべきは原稿料システムの発案で、それまでは文字どおり戯作、余技として作品の報酬が酒宴一席程度で終っていたのを、寛政三年に一編いくらの原稿料という前例を作り、小説より他に収入の術を知らない馬琴でも、終生作家で食えるようなシステムにしたのである。原稿料制度のことから駆け出し時代|居候《いそうろう》をさせてもらったこと、一流出版社耕書堂の編集部員にしてもらったこと、飯田町の下駄屋会田屋に入婿《いりむこ》させてもらったことなど、馬琴は京伝に絶対頭のあがらぬ立場だった筈なのである。  京伝びいきの馬琴ぎらい……私だけでないらしく、京伝研究家の出版物は多かれ少かれ馬琴非難の文章がある。京伝を識ってから馬琴憎しの数年間が続いたが、私の京伝びいきが身近の人々に知れわたった頃、妙な方角から私を京伝研究の深間《ふかま》に引きずり込む者が現われた。  私の親類で、葛飾区四ツ木町に荒物商をいとなむ田島老人である。公害、物価高、それに人情酷薄を算《かぞ》えたて、もうたまらねえ俺アどっか山ン中へ婆さんと引っ込みてえよ、を口癖にしていたのが、つてがあって本当に三島の山中へ転居の肚《はら》をきめたという。二人の息子はどちらも一流銀行に職を得て今は楽隠居といった具合だが、何せ先祖代々の葛飾人で、四ツ木の地所もかなり広いし、家がまた恐ろしく古い。流石《さすが》に父祖の地を引き払うのが心残りだったのか、急ぎもせず丹念に整理をして見たら、どうやら山東京伝にまつわる文書が出て来たらしい。別れに際してそれをくれるから取りに来いというのだ。  喜び勇んで子供の頃から苦手な頑固爺いの家へ駆けつけると古く大きな家中が奇麗にかたづいていて、若い頃から俳句をひねり続けて来たせいか、妙に雅味の出た皺《しわ》くちゃ面をほころばせて、ブルックボンドのティーバッグを落した寿司屋の大きな湯のみを大事そうに口に運んでいた。  無造作に膝もとへポンとほうり出された紙の束をひろげて私は思わず歓声をあげた。天明五年の『江戸生艶気樺焼《えどうまれうわきのかばやき》』と同七年の『通言総籬《つうげんそうまがき》』があるではないか。どちらもたしかに初版本である。それに宿屋飯盛《やどやのめしもり》撰で政演画の『吾妻曲《あずまぶり》狂歌文庫』の完全な奴……。それが銀座一丁目の京伝店で包装紙兼用にしていた宣伝チラシ十葉ばかりにくるまっていたのである。  京伝はデザイナー兼コピーライターで、日本の本格的アドマンの元祖と言っていい。その先達に風来山人平賀源内《ふうらいさんじんひらがげんない》があるとは言え、自作の本の中途に突如一ページ広告を持ち込んだり、作中の人物にCMを言わせたり、画文混合のクイズ的商業文案をしたり、やっていることは現代アドマンたちと大して変らない。私の京伝びいきはそんなところにも理由があった。  問題は、その中に稚拙きわまる画文が混っていたことだ。そのひとつは肉筆の墨画で構図の天地さえたしかめねばならぬような怪し気な筆さばき。よく見れば墨堤夜景と題があり、墨田河畔の風景画だ。   月と葦 浮いたばかりの 土左衛門  ……臆面もなくそんな物凄い句を賛してある。私は思わず吹き出した。どう見ても素人仕事で、それも余程の大素人らしい。印もなく、ただ左下隅に弧人という署名があるばかりだ。弧人……聞いたことのない名である。  もうひとつは部厚い和綴本で、製本はどうやら玄人《くろうと》らしいが文字はねじれ金釘。やはり肉筆で表紙に『大富丁平吉』の名があり、中央に濃墨たっぷりと、『日記』としてあった。変体仮名の『※』に日記の二字、何やら意味あり気でもあり同時に頼りなさそうな文献という気がした。開いて見ると、日記といっても馬琴日記のような丹念なものではなく、二、三ヶ月続くと思うと何年も飛んでいたり、つまりその気になった時だけの気儘《きまま》日記らしい。巻頭の日付は天明四年六月十二日、終りは明治三十三年二月一日となっている。  有難く頂戴して京成電車に乗り、それが地下にもぐって都心近くに来てから私は急にとんでもないことに気づいた。慌てて次の駅で降りるとアワを食って喫茶店に駆け込み、四ツ木でもらって来た包みをひらいた。  冗談じゃない。天明四年は一七八四年で明治三十三年は一九〇〇年だ。天明、寛政、享和、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治と、その間十四代百十余年の年月がある。……あの爺いかつぎやがった。そう思いながら『日記』を繰って見たが、ねじれ金釘流の書体は終始一貫していて、内容もとびとびながらふざけたものではないらしい。私は呆れ返ってしまった。  もし私が小説の、それもSFなどというジャンルに首を突っ込んでいなかったら、多分『日記』は疑問符をつけっぱなしで埃りまみれにさせてしまったことだろう。だが百十余年にわたる日記、ということが私をモロにSF的解釈にもつれこませてしまった。仮りに大富丁平吉なる人物が十五歳のときから日記をつけはじめたとしても、明治三十三年二月一日までで百三十歳を生きたことになる。  SFになるかならぬか、まさにギリギリであった。百余歳の長寿は稀れではあるがないわけではない。だが百三十歳となると記録ものだ。明治のことでそんな高齢者が記録もれになっていたかも知れないが、これを二十歳代でつけはじめたとすれば百三十何歳……まごまごすると百四十歳。異常な高齢である。SF的思考の介入する余地が出て来る。  私は家へ帰ってから……と言っても当時は四谷のアパート住いだったが、じっくり腰を据えて『日記』に取り組んだ。  まず表紙。中央の『日記』という意味は不明だが、大富丁という町名ならすぐ探し出せるはずだ。図書館へ行って近江屋板の江戸切絵図を繰って行くと、思ったとおり日本橋南芝口橋迄・八丁堀霊岸島築地辺絵図の中で簡単に発見することができた。場所は真福寺橋西詰……地図を文で説明してもはじまらないから大ざっぱに言うと、今のテアトル東京の裏手へ伸した線と、歌舞伎座の裏へ伸した線が交差するあたりである。掘割りぞいのいわゆる河岸地という細長い小さな区画で、真福寺橋を渡れば京橋南詰まで一直線、つまり山東京伝が経営した煙草入小物店とはほんのひとっぱしりの距離である。  その位置関係で、四ツ木の田島家にあった京伝の本や京伝店の宣伝ビラの意味が知れた。  京伝が北尾重政の門に入って浮世絵の修業をはじめたのは安永四年頃のことと推定されている。安永四年と言えば蜀山人大田南畝が洒落本の処女作『甲駅新話《こうえきしんわ》』を出版した年である。江戸の庶民文芸ブームがはっきり姿を現わした頃で、京伝のように文才に恵まれた人物には、そのような時流が肌に沁《し》みて感じられた時代であったはずだ。そして安永七年には処女作『お花半七|開帳利益《かいちようりやくの》札遊合《めぐりあい》』が刊行されている。今のように画文の才が別々に認められる時代ではなく、文士は同時に画家であって、そのふたつが切り離せない時代だった。青年画工北尾政演は翌八年に二作を発表、安永九年には『娘敵討古郷之錦』で画工から独立した文人山東京伝のペンネームをはじめて使用している。そして二年後の天明二年、デビュー五年目で当時の芥川賞直木賞的意味を持っていた蜀山人の賛辞を受けた。作品は『御存《ごぞんじの》 商売物《しようばいもの》』であった。  つまり『日記』書きはじめの天明四年は青年作家京伝が江戸社会のスターとして知れ渡り、登り坂の派手な雰囲気につつまれていた時代である。黄表紙・洒落本の類が庶民の間に大量に売れはじめていることを重ね合わすと、昭和におけるテレビ興隆期の様相があてはまる。新時代のスターであったわけだ。町内の人々はもちろん、その近傍に住む連中が、近いというだけで肩身の広い思いをし、何かというと京伝を話題にしたであろうことは想像に難くない。大富丁の平吉も多分そうした理屈ぬきの京伝ファンであったのだろう。だから京伝の筆になるものを収集し、丁寧に保存したのである。  平吉という人物は、ひょっとすると四ツ木の田島老人の先祖に当るのではないだろうか。天明四年といえば京伝二十四歳の年で、文化十三年五十六歳で死ぬまでの間には数多い著作がある。平吉はその間京伝の作品を大量に収集したとも考えられる。その散逸した残りが私の手許に舞い込んで来たのかも知れない……そう思うと田島家での保存のし方を恨みたい気分になるのだった。  一方『日記』の本文解読は困難をきわめた。第一に私は江戸文学の基本を修めていないから、早書きに書き崩した変体仮名がよく読めない。同時代人には註釈の必要がない俗語俗称略称略語の類も、ひとつひとつ遠まわりして各種の文献探しからはじめなければならない。おまけに平吉の教養程度はかなり粗雑なもので、誤字あて字が到る所で罠《わな》を作っている。これには閉口した。私は専門家ではないし、広告屋というのはいつも全く未知の分野に転進し続ける商売で、化繊、電卓、食品、車とその都度相当突っ込んだ所まで自習作業をしなければならないのである。  時間がない、しばらく放置する、熱がさめる、忘れる……そして思い出したようにまたはじめる。そんなパターンを幾度か繰り返し、私の『日記』研究は大した進展を見せなかった。  しかし、それでも幾らか見当がついて来た。大富丁平吉は、はじめ考えていたよりずっと京伝の身辺に近い人物であった。日記の様子では毎日のように京伝の家へ行く。  ○十七日 丁酉《ひのととり》晴   高井の松と松丁湯すぐ岩家行中食相四と食ス 夕伝さま戻スキヤ汁粉へ使米上々吉 夜上大通へ供風吹ク  ……たとえばこのような記事が到る所にある。高井の松とは平吉の友人らしい。大富丁のはずれ、本多隠岐守の邸の前に番小屋があって、その角から二軒目に高井某という武士の家があった。松はその下僕であろうか。ひょっとすると家族の一人かも知れない。私は松吉という名を考えたが、松之助かも知れない。とにかくその友達の高井の松ちゃんと平吉は朝湯へ行ったのだ。日記の他の部分と総合すると平吉の家の近くに銭湯はなく、向う河岸の松屋町まで入浴に行くらしい。ひと風呂浴びてその足で京伝の家へ向う。岩家は岩瀬家つまり銀座の京伝宅である。中食は昼飯のこと、相四は相四郎京山の略である。平吉は京伝を伝さまと記し、弟の京山を相四と気安く呼んでいる。して見ると京山よりは年長であろう。京山は岩瀬家の末息子で京伝とは八つ違いであるから、平吉の年齢は天明四年ごろ二十二歳から十五歳の間、私はだいたい二十歳ぐらいだろうと見当をつけた。その平吉が京山と岩瀬家で昼食をとる。どうも使用人のような具合だ。そして夕方になると伝さまこと京伝が帰宅し、平吉を数寄屋河岸の汁粉屋へ使いに出す。汁粉屋とは北川喜兵衛のことでペンネームは恋川好町《こいかわすきまち》である。恋川|春町《はるまち》の門人で狂歌名を鹿都部真顔《しかつべのまがお》と言った。恋川春町は小石川春日町に住み、石と日の二字をけずって恋川春町と称したが、その弟子の好町も、数寄屋の屋を削って好町《すきまち》と言ったらしい。そして夜、八丁堀上大通りの町御組のどこかへ供をして行った。強い風の吹く晩であったらしい。夜になって平吉が供をしたのは京伝ではない。父親の伝左衛門である。  私には平吉という人物がだんだん判って来た。平吉は銀座町屋敷の使用人で京橋南詰から尾張町一丁目一の橋通りまでを縄張りとする、いわゆる岡ッ引を兼ねていたらしい。日記をつけはじめた天明四年、それまで住み込んでいたらしい銀座町屋敷を出て大富丁に借家した。このことから私は天明四年平吉二十歳と推定した。一家を構える年齢に至ったから町屋敷を出たのだろう。それまで家族同様に暮したから、その後も当然のように岩瀬家で食事をし、京山を相四と記したのだ。  京伝の父伝左衛門は伊勢の人である。江戸に移住した時期についてはよく判らないが、一説では七歳、また九歳、十九歳の説もある。とにかく孤児であったらしい。深川木場の質舗伊勢屋に奉公し、誠実で商才のあったところから伊勢屋の養子となり妻を迎え、京伝、京山のほかお絹お米の四子を設けたが、安永二年伊勢屋から離籍し銀座町屋敷を預る町役人になっている。平吉はその町役人岩瀬伝左衛門の配下であろう。ひょっとすると安永二年七、八歳の頃、岩瀬家町役就任と同時に下僕として住み込んだのではあるまいか。忠実に奉公し町屋敷の業務に通じて、天明中期に一之橋通りまでを預る岡ッ引になったという推理が成立する。  そんなわけで八丁堀と岩瀬家は密接な関係があり、日夜こまごまとした連絡があった筈である。伝左衛門と平吉は八丁堀同心の誰かに会いに出掛けたのだ。『日記』には八丁堀同心の名が何人か出て来るが、いちばんひんぱんに現われるのは清野勘右衛門である。平吉は時に清野さま、と書き時にせいのと仮名であらわしている。勘忍旦那とも記す。  ○廿五日 乙亥《きのえゐ》天明ヨリ雨五半時過雨止   菓子店橘屋盗賊の件隣家イシ煎庵子長太郎ト判 せいの方伺ひ両家談合に定ル 爾後いさかひ無之様申渡 また勘忍旦那なり  ……そういうように述べている。菓子屋の泥棒が実は隣りの医師の倅長太郎と判り、清野勘右衛門が示談処理をしたのだ。本来なら送検するところをゆるくはからったわけで、平吉はまた勘忍旦那がはじまったと言っているのである。勘忍旦那はそうした人情味を慕われた同心清野勘右衛門の愛称であったらしい。そして、清野勘忍旦那の上司が、与力の細川浪次郎である。細川浪次郎は江戸文芸史にかくれもない京伝ファンで京伝門人を自称しみずからも洒落本を著した鼻山人《はなさんじん》である。  平吉は『日記』のところどころに米上々吉、とか米凶、とか書いている。私は最初の内米穀相場のことかと思っていた。米上々吉などの記述が特に多出する天明年間は天災地変が頻発し、天明四年には関東奥羽に大飢饉が起っていたし、同七年の五月には江戸市中で米騒動の打ちこわしがあったくらいで、一庶民平吉も日々の米相場に一喜一憂したのだろうと考えていた。  ところが、日記の或る部分に換行を嫌って書き加えたような細字で、米かぜ熱甚し、とあるのを発見し、私の解釈がガラリと変ってしまった。  風邪熱甚だし……と来れば米は人名である。コメと読まずにヨネと読むべきだ。ヨネ、それは岩瀬家の下の娘の名である。上の娘は京伝と五つ違いのお絹、下は十違いのお米である。およね……記録によると彼女は天明八年十八歳で病死している。  その時私は平吉の恋を直感した。そして大富丁平吉という江戸時代の若い岡ッ引を、ひどく身近な存在に感じはじめたのである。主家の娘をひそかに恋い慕ういなせな若者……。私は『日記』の米という字を徹夜でチェックし朱線を引いて見た。朱線は天明四年から現われ六年、七年でピークに達し、八年の前半から急に消えてそれ以後は現われない。この頃およねは十六、十七、十八歳で、はたち代の男の恋の対象には若すぎる気がしたが、早婚社会を考慮するとそうとばかりも言い切れない。  私の興味は俄然平吉の恋に集中した。もっとも、『日記』通読を優先し、そのあと部分追求に入るべきなのが、とにかく解読難航をきわめ、前に原文引用したとおり、文脈まるで判じ物。根気のなさに意志の弱さ、加えて浅学の私であってみれば、京伝妹およねへの慕情を発見すると田の大半を刈り残したまま早くも脱穀作業をしたがったというわけなのである。  吉、上々吉、または凶、という記述はいったい何を指しているのであろうか。『日記』にはおよねに関して大した記述がない。他の家族のことはしょっちゅう出て来るのに、およねだけは無視したように書かない。私はそれを恋のせいだと思った。この時代の男性心理にはそうした傾向があったはずである。人に言うはおろか、文字に書くことすらはばかられたのであろう。吉……およねと親しくできた日であろう。上々吉……折りがよく二人きりで沁々《しみじみ》とした語り合いでもしたのか。凶……その日およねは素気なかったのではないか。  上々吉や大吉はあっても、大凶は一度もない。それは平吉の願望のあらわれであり、同時に肘《ひじ》テツをくらうほどの打明け方をしていない証拠でもあった。私はそう思い、遠い二百年の昔、銀座に咲いた恋一輪を折にふれしのび返していた。  ところで、このおよねは大変な才女であったという。もちろん京伝の引き廻しもあるだろうが、天明の江戸狂歌界の異色タレントとして、黒鳶式部《くろとびしきぶ》のペンネームで知れ渡っていたらしい。京伝に関する資料が不充分であった頃は、およねの年齢についても水増しされてもう少し年長の、十八、九から二十二、三歳のイメージで解釈されていた。それに岩瀬一族は男女とも美貌で名高いから、才女黒鳶式部には妙齢豊艶な美女というイメージが直結して来るのだ。従っていろいろ艶めいた噂が研究家の間からとび出して来る。  まず根強いのは某侯御留守居役後援説である。だがこれは資料の整った今日では、噂の発生経路がはっきりしている。亀山人《きさんじん》、手柄岡持《てがらのおかもち》、朋誠堂|喜三二《きさんじ》などのペンネームで狂歌、俳諧、戯作などを数多く残した同時代の文化人平沢平格常富という武士がその本人である。秋田佐竹侯の留守居役で大田南畝グループの有力メンバーだ。当時の文人中には数多くの武家がいるが、その中でも身分の高い存在で、その喜三二が黒鳶式部の才能を高く評価し何かにつけてひいきにしたのだろう。それが後に男女の噂を生んだに違いない。  また、松平|不昧《ふまい》公の寵を受けたとか、青山|下野守《しもつけのかみ》と関係があったとか、幕医鵜飼幸伯の妾とか、年齢を水増しされたためにいろいろ取沙汰されている。鵜飼幸伯の件は京伝の叔母に当るお勢が、幸伯の世話で青山下野守忠高の側室となり、寵を独占してその子二人までが相ついで青山侯の家督を継いだ事情から来ている。青山侯御隠居説も同じ源である。  ところが、この一見愚にもつかない噂が私には気になりはじめたのである。というのは『日記』が天明四年六月十二日にはじまっているからだ。資料ではその日上野|不忍《しのばず》池畔でデザイン・コンテストが開かれている。  京伝の著作に『たぬぐひあはせ』があり、これはそのコンテストにおける作品と、デザイナーの短文が収録されている。手拭《たぬぐい》合せは文字どおり手拭の染図案を競った風流な集りで、この主催名義人が黒鳶式部なのである。  もちろんこれはおよねを盛りたてた京伝たち文人グループの仕事だろうが、その会の有力後援者に江戸大通の一人である雪川公がいた。雪川公は出雲松江の松平出羽守|治郷《はるさと》すなわち松平不昧公の実弟である。不昧公説はとにかく、プレイボーイの雪川公登場が気になって仕方がない。おまけに平吉は『日記』第一日目に、自分も上野の手拭合せに行ったこと、およねが年不相応のませた衣裳、髪かたちで、思いも寄らぬあでやかさだったことを丹念に記している。まるでその会のおよねを書き留める為に日記をつけはじめたようである。私は国会図書館に雪川公日記なるものがあるのを知ると、矢も楯もたまらずに読みに出掛けた。  雪川公日記はまさしく珍品であった。吉原|細見記《さいけんき》と言ったほうがいいくらいで、蜀山人や表徳文魚らとのべつ遊び歩いている。京伝も画工名で交際していたらしく、政演の名もよくあらわれる。ただ六月十二日の手拭合せの記事はなく、その月の朔日に「鳶女の催し中旬に決る」とだけ記してある。六月一日に京伝グループの誰かが予定|言上《ごんじよう》に行き、ついでに資金をねだって行ったのだろう。  鳶女……それは黒鳶式部のおよねのことだ。雪川公の書き方が判ったので、鳶女の二字をたよりに日記をたどると、分冊になった天明九年の分、つまり寛政元年分でもある一冊に意外な文章を発見した。「政演万八楼にて曰く、鳶女遂に神隠しと定り、命日|遡《さかのぼ》りて前年三月三日と為す。まこと怪事はありたるものなり」……万八楼は柳橋の料亭であるが、これは奇ッ怪な記録と言わねばならない。およねは病死でなく、神隠しにあったのだ。命日遡りて前年三月三日と為すというのは、だから命日は行方不明になった去年の三月三日にいたしましたという報告である。  百年以上にわたる『日記』と言い、およねの神隠しと言い大富丁平吉には何か得体の知れぬ事件が起っていると思った。超自然現象、四次元の異変……そんなSF的なキャプションが、私の頭の中で渦を巻いた。  京伝の身辺にSF的現象が起きたらしいと感じはじめてからしばらくすると、今度は馬琴の『伊波伝毛乃記』が気になりはじめた。理由はその巻頭言である。 「その家に於て秘する事あり、歓ばざる事あらむ。一覧の後速かに秦火《しんくわ》に附せよ。妄りに売弄《ばいろう》せば、余が辜《とが》をまさむ」  馬琴は案外およねの件を知っていたのではあるまいか。それまでこの巻頭言は京伝に対する中傷で、殊に京伝の出生に関する流説を企んでいるものと解釈していたのだ。 「京伝は椿寿斎の実子に非ず。その女弟以下京山は京伝と異父兄弟なりといへり」  この一文が、その家に秘することあり、という伏線を生んだのだと思っていた。また京伝の母についても、 「尾州の御守殿にみやづかへし奉り、数年の後椿寿斎に嫁したりとは聞きたれども、前夫ありしよしは余が知らざることなれば……」  と素ッ破抜きめいたことをやっているからなおさらの事であった。まして文政元年の『著作堂雑記』では、 「京伝は前妻の子なり。女子以下京山とは異母弟なりしかといふ」  と、今度は腹ちがいにしてしまい、天保五年の『江戸作者部類《えどさくしやぶるい》』では、 「京伝は伝左衛門の実子に非ず、某侯の落胤《らくいん》なりとぞ」  と高貴落胤説を持ち出して馬琴一流のしつっこさを示している。 『伊波伝毛乃記』が文献として尊重されながらも、馬琴の人格を疑う重大な要素になっているのはこの辺の事情によるわけである。  しかし京伝歿後の京山との争いや、京伝本人とのライバル意識から発した喧嘩として、馬琴も案外口が堅く、言わでものことは言わずに、ただ巻頭言でおよねの秘事をチクリと触れただけなのではあるまいか。そう言えば、   なき人の昔おもへば かぎろひの    いはでものこと 言ふぞかなしき  という一句は前記巻頭言の思わせぶりの直後に記されている。なき人を京伝ととらずにおよね、或いはおよねと京伝と取れば、巻頭言は巻頭言で完結し、本文中の京伝異父説の伏線ではなくなってしまう。  父親の伝左衛門はおよね失踪の直後、阿弥陀仏の熱心な信者になり、寛政七年にはとうとう剃髪して椿寿斎と名乗るようになった。椿寿斎の命名は京伝で、父のそんな深刻ぶりを嫌ったのか、いかにも京伝らしく鎮守祭をもじった椿寿斎を与えている。伝左衛門は芸事に理解のあるお祭り好きの陽気な男だったというから、そんな名を与えて元のお祭り好きに戻れと励ましたのかも知れない。だが寛政十一年に他界している。  だいたい京伝はそういう深刻がりをひどく嫌っていた。何事もしゃれのめしていこうというポーズに似ているが、実はそれほど勇ましくはなく、すべてにアウトサイダーでいたかったらしい。傾城《けいせい》に血道《ちみち》をあげるのは野暮、通人であろうと努力するのは半可通、すべてを知り何事も心得た上で流れに棹せず水と共に流れて行くのを最上とした。何かに熱中する様子を見せるのを恥とし、現代語で言えばビューティフルに世渡りをして行きたがったのである。だから小間物商京伝店も洒落で経営し、著作も余技めかして、別に生計の途が立たないのなら作家になどなるな、と馬琴入門の際に訓したりしている。従って田沼失脚に引きつづく松平定信の寛政改革をからかって手鎖五十日の筆禍を蒙ると、その上ムキになって逆らう気はなく、勧善懲悪物語などに転向してしまい、今日に残る善玉悪玉を考案して別な方角から大衆の心を掴《つか》んで行く。なんとなく稼いで、なんとなく有名になり、のべつ遊んでいるように見えて、なんとなく次々に作品が発表されている……それが京伝の生き方で、馬琴の競争心まる出し、モーレツ作家ぶりなどとはまるで別な美意識を持っていた。まして遊興即肉欲処理とする馬琴と、泥田の蓮に最高の花を観て二度も傾城と結婚した京伝では、師弟といえどもソリが合わぬのは当然であったろう。  私の京伝研究は、平吉およねの脇道からはてはSF的異変事につまずいて進展せず、『日記』も余りの難解さとその日の糧に追われるアドマン稼業で、かなりの間解読が中断してしまった。  シャンプーのCF製作と、繊維メーカーのファッション・ショーに追いまくられて、ろくに寝る間もない日が続いていた。特にシャンプーのCFは何度コンテを出してもOKが出ず難航していた。ファッション・ショーのほうは仲間の加勢でなんとかサマになる所へこぎつけることができた。大手町のホールで三日間連続して行なわれ、三部構成で幕間《まくあい》が二回ずつあった。最初の幕間はスタジオNO1の踊りで、あとの一回は菊園京子の唄だった。スタジオNO1は心配ないとして、菊園京子のほうが幾分心配だったが、シャンソン風の唄い方で当てた京子の実力は大したもので、デビュー曲「夜の魂」、ミリオンセラーの「流れ者のタンゴ」、そして例の「マダムと呼んで」、の三曲で完全に客を魅了してしまった。当時私も行きつけのバーなどで、「マダムと呼んで」の最後の一節を、マダムを呼んでェ……とやって嬉しがっていた具合いだったから、この新進スターには興味があり、仕事にかこつけて何かと話しかけた。  頭の回転が恐ろしく速い。それに美人である。私は初日ですっかりファンになり、二日目にはその黒く長い髪にハタと手を打って、 「きみ、シャンプーのコマーシャルをやって見ないか」  と誘いをかけた。京子は艶っぽく笑って、「そうね、いずれはやらされるんだから、どうせなら早いとこやっちまおうかしら」  サバサバした調子でそう答えた。 「なあ、コンテで攻めるから落ちないんだよ。タレントを見せちゃおうじゃないか」  私が居合せた仲間の一人に言うと、 「それもそうだ。見事な黒髪だよな」  そう言って無遠慮に京子の髪に触れた。 「マネージャー、ちょっと来てェ」  京子は楽屋から廊下に向って呼んだ。「わたしコマーシャルやってみる」  仙田というマネージャーは二十四、五の若い男で、誠実そうな美男だった。 「やろか……」  これは出来てるな……私はそう思った。呼吸が一心同体になっている。「みんな一度はコマーシャルをやるんだ」  仙田は教えるような口ぶりで言い、はげましをこめた眼で京子を見た。正直言って私は、なアんだ……と少しがっかりした。だがもう言葉は口から出てしまっている。気持を切り換えて仕事本位に自分を戻し、 「いつが空いてる」  と訊ねた。打てば響くように、 「あしたの四時から九時までなら」  京子は仙田に同意を求めるような表情で答える。 「よし決った。すぐにスポンサーに連絡しよう」  私はそう言って二人の傍を離れた。先方の担当者に連絡すると、明日は昼から多摩川工場へ行っているが、それでもよければ連れて来いと言う返事である。 「弱ったな、六時にちょっとTBSへ行かなきゃ……」  私がその返事を伝えると仙田が顔をしかめた。 「空いてるって言ったじゃないか」 「ええ空いてるんですよ。でも僕のほうが」 「君のヘアスタイルを見せたって仕様がないだろ。菊園君が要るんだ」  すると京子は笑いながら、 「だいじょうぶよ、わたし一人で行って来るわ」  と言った。 「そうだよ。何ものべつ手をつないで歩いてなきゃいけないわけじゃないんだろ」  いくらか焼餅も手伝って私は邪慳《じやけん》な言い方をした。仲間も二人のムードに気づいていたらしく、ケラケラ馬鹿笑いをした。……とにかくそうして相談はまとまった。  秋であった。  京子起用案は物の見事に成功し、OKの出た多摩川工場の帰途、私は彼女を横に坐らせて、多摩川べりを溝の口に向けて車を走らせていた。橋に近づくにつれ道路は渋滞し、やがて一寸きざみのノロノロ運転になった。私は京子のノーブルな横顔を時々盗み見しながら、ひとりよがりに甘ったるい気分をたのしんでいた。眼の下の暗い河原にちょぼちょぼと生えた……というよりは生え残ったすすきが風に揺れ、その向うの低い空に不吉なほど赤い大きな月が浮いていた。  私はふと覚えていた句を口ずさんだ。 「月と葦 浮いたばかりの 土左衛門……」 「え、なんて言ったの、いま」 「月と葦 浮いたばかりの 土左衛門。どうだい、名句だろ」  京子は軽く笑って見せた。 「名句かどうか……あなたの句じゃないでしょ」 「そう。弧人の句だ」  その瞬間私は急に隣りから冷えびえとした風が立ったような気がして、思わず京子の顔を見た。京子は凍てついたような瞳で私を睨んでいた。「どうしたんだい」そうとりなすように言わざるを得なかった。 「その句、どこで読んだの……」  強い詰問調であった。私は白刃で切りつけられたようにうろたえた。 「待ってくれよ。一体どうしたんだい」 「あなた誰なの」  京子は私の身許からして疑っているようであった。 「ご存知のとおりの男さ」  京子はなおも私を睨み続け、身を引くように狭い車内で距離をとり、ドアにぴったりとよりかかっている。  車の列が少し動いて、私は救われた思いでギヤを動かしハンドルを握って眼を前方にそらせた。気まずい沈黙が続いている。 「墨堤夜景という下手糞な俳画に書いてあった句だよ」  橋の中ほどまでも進んでから、私はやっとそう言った。それほど京子の態度は異様な感じであった。 「どこで見たの」  京子はせきこんで訊ねる。 「持ってるのさ、俺が……」 「大川橋のたもとから向う河岸《がし》を見た絵でしょ。丁度こんな大きな月が出ていて……」  私たちの行手に赤い大きな月が浮いていて、京子はちらりとそのほうを見て言った。 「そうだよ。よく知ってるな」  はてな、と思った。あの絵は田島家に長く眠っていたはずではなかったのか。他に複製されるほど価値のある作品でもなし、素人のいたずらといった程度のものである。それをこの若い女が知っているというのは、どう考えても腑に落ちない。それに今の言い方も奇妙である。大川橋というのは今の吾妻橋の古名だ。架橋はたしか安永年間だったように思う。京子は切れのよい東京弁を話すが、それにしても今の東京人は向う河岸《がし》とは滅多に言わない。向う岸《ぎし》が普通で、河岸《がし》という時は、向うッ河岸《がし》と促音が入るのだ。向う河岸《がし》と平板に言うのは明治生まれの下町育ちで、今はほとんど聞くこともない発音である。  横目で様子をうかがうと、京子は赤い月を見つめて凝然としている。 「きみは東京育ちかい」  ええ……という返事にかぶせるように私は質問に転じた。 「としよりに育てられたね」 「……そうでもないわ。普通よ」 「ほう。じゃあ江戸文学か歴史でもやったのかい」 「なぜ……」  前をむいたままだが、姿勢が少し柔らかくなっている。 「いま大川橋と言ったぜ」 「そうかしら」 「言ったよ」  京子は急に私のほうへ顔を向けた。 「ねえ、お願い……」 「なんだい」 「その絵、ゆずってくれないかしら」  今度は私が黙り込んだ。あの絵にそう愛着があったわけではない。タダでやっても惜しくはないのだ。現に部屋のどこにしまったか、はっきり覚えていないくらいである。だが、この京子に対して考え込まざるを得なかった。誰も知る筈のない駄句一句と、箸にも棒にもかからぬ素人絵一枚を知っていることがおかしいのである。  私は思い切って頭に渦をまきはじめた仮定をぶつけて見た。 「弧人というのは大富丁の平吉だろ」 「ええ」  すらりと返事が戻ってきた。だが、次の瞬間私が京子を見ると、彼女は右手を口にあてがっておびえたような瞳をこちらに向けていた。  誰も知るはずがない。……頭の中でそういう大声が谺《こだま》していた。それは私の絶対的な確信であった。二百年前に生きた無名の一庶民平吉が、『日記』以外のどんな文献にも名を留めているはずがない。しかも『日記』は私の手に入るまで、研究の対象になったこともなければ、世に出て発表の機会を得たこともないはずなのである。  その時私はよく事故を起さなかったものだと思う。駐車スペースを求めて夢中で車を走らせ、瀬田の交差点をやみくもに左折して環状八号に入ると禁を犯して強引に右折し、ドライブ・インの暗い駐車場へ乗り入れた。京子のほうはというと、これはまたうっかり口を割った犯罪者のような様子である。体中の力が抜け、不安げに両手の指を組み合わせている。  つね日頃、SFの世界に入り浸っていると、こういう時常識人の枠を超えた飛躍が、飛躍とも異常とも自覚せずに口をついて出るものらしい。……あとでそう思ったのだが、もし私がSFを書きも読みもしない男だったら、決してそんな言い方はせず、従って菊園京子の秘密に立ち入ることもなかったであろう。  しかし、私は言った。相手を安心させるため、精いっぱい温かく、静かな声で……。 「きみは黒鳶式部なんじゃないかい」  京子は瞳をあげて私をみつめた。冷たく堅い表情であった。だが私はその押し殺したような無表情さに、かえって肯定の返事を観た。 「知りません、そんな人……」 「大丈夫だよ。これでも山東京伝のファンで、好きなばかりに独りでこつこつ研究してるくらいなんだから。……味方だよ」  京子は黙っていた。私はかまわず彼女の心が和らぐのを期待して続けた。「黒蔦式部、いやさ岩瀬のおよねちゃん……随分とお達者で何よりでしたねえ」  軽く笑いながら芝居がかりで言ってみた。芝居がかるよりほかに天明時代の江戸言葉を持ち出す工夫がつかなかったのだ。 「…………」 「助六が、笠にかかりし悪態は……したにも着かぬ散り桜かな」  私は黒鳶式部の狂歌を、思い出し思い出しゆっくりと言った。 「……たしかそうだったね」 「助六が、笠にかかりし悪態は……」  暗い駐車場の車内で、京子は低い声でそう詠み返した。 「したにも着かぬ……散り桜、かな……」  下の句は泪声《なみだごえ》であった。環状八号を通る車のライトがひっきりなしに天明の美しい江戸娘の顔をかすめ、頬をつたう大粒の泪が光った。  それは私の心にも甘酸っぱい感動を呼び起していた。二百年も前のふるさとを思い起し、別れた身内の誰かれも、墓の朽ちるほど古びた遠さになってしまったうら若い美女がひとり、戻れぬ時代に身を震わせて泣いているのである。  ひどく残酷なことをしたと、私はあとでつくづく後悔したが、その時はなんとかして京子との接点を作りたい一心で、次々に知っている名前を挙げた。 「小伝馬町の伊勢屋忠助さんのおかみさんになったお絹ねえさん。お祭り好きの伝左衛門さん。数寄屋河岸のお汁粉屋の喜兵衛さん、つまり狂歌師の真顔さん。唐来参和《とうらいさんな》の和泉屋《いずみや》源蔵。南陀伽紫蘭《なんだかしらん》の安兵衛さん。大門口の鳶屋さん。大和屋の表徳文魚さん。市が谷の質亭|文斗《ふみます》は鍋屋さん。青山様のお勢叔母さんに与力の細川さん、同心の清野勘忍旦那、それに大富丁の平吉、高井の松ちゃん、相四郎……」  心なしに私が次々と言いつらねる京子の懐かしい人々の名が、どれほど彼女を打ちのめしたことであろうか。途中から京子はすすりあげ、泣きはじめていた。だが私は無慈悲にも、京子に対して、ホラこれほどあんたのことを知っているんだよ、という気持で続けた。 「木場の伊勢屋に堺町のお師匠《おし》さん、双紙問屋の五兵衛|店《だな》に三郎兵衛|店《だな》、竹河岸、京橋、炭屋橋。紀の国橋に三原橋。休伯屋敷槍屋町、一の橋までは平吉の縄張りで、それから大事な雪川公……」  調子に乗って半ばうたうように思いつくまま言いつらねていると、雪川公のところで京子は声をあげて泣き、いやいや、と身をよじって私の左肩にもたれて顔を伏せた。  私は言うのをやめ、煙草をくわえて車のライターで火をつけた。 「駒さんまで知ってるのね」  しばらくすると京子は人差指で泪を拭《ぬぐ》いながら言った。 「駒さん……」 「松平のよ」 「雪川公のことか」 「駒さんに逢いたい」  京子はしんみりと言い、ハンドバッグからハンカチを出して顔に当てながら、気をとり直したように、「馬鹿ねあたし……もう逢えるわけないのに」と弱々しく微笑してみせた。 「雪川公が好きだったのかい」  すると京子はあいまいな表情で、 「私たちのこと、そんなにくわしいの、なぜ……」  と話をそらせた。 「北尾政演は素晴らしい画家だよ。山東京伝は文豪だ。それに岩瀬伝蔵は江戸ッ子の見本だ。俺は大好きなんだ。馬琴なんて糞くらえさ」 「馬琴……」  京子は怪訝《けげん》そうにした。 「そうか、知らなかったんだな。……きみが神隠しにあったのが八年の三月三日だろ。その翌とし年号が天明から寛政にあらたまって、その二年目、お兄さんのところへ弟子入りした奴だよ。大栄山人滝沢清右衛門といって、のちに曲亭馬琴という名に変えたんだ。こいつが出世してから何かとお兄さんたちにたてついてね。嫌な野郎さ」 「ふうん」  京子は瞳をキラキラさせはじめていた。「でも、あにさん、相手にならなかったんでしょう」 「ああ、京伝はそんな相手をする人柄じゃないものな」 「そうよ、あにさんは誰にだって何にだって本気で相手にならない人よ」  京子は得意そうに言った。 「あにさん……そう呼んでいたのかい」 「ええ」 「じゃあ京山のことは」 「相ちゃん。よそいきは相四郎。……京山なんて、おかしくって」  京子は元気をとり戻し、ペロリと舌をのぞかせた。テレビの人気者がすっかり元の江戸娘に戻って、そんな仕草まで現代人にはない一種独特の味のようなものをかもし出している。  私も一時のひどい昂奮《こうふん》状態から脱して、時計を見るゆとりをとり戻した。 「まだ九時までだいぶある。お茶でもどうだい。明るい所で化粧も直したほうがいいし」  京子は素直に同意して車から出た。二階の気障《きざ》な店へ昇る階段の途中で、 「あたしコーヒー駄目なの。紅茶ばっかりよ。やっぱりね……」  と言って笑った。モロに算《かぞ》えれば二百歳という身の秘密をあっさり抛《ほう》り出し、私を信じ切った、というよりは悪あがきしても仕様がないという爽《さわ》やかな姿勢であった。 「あんたの時代を考えれば、当節なんでも舶来だからね」  意識してそんな古めかしい喋《しやべ》り方になるのは私のほうで、明るいレストランに入ると、一気に二百年という時差の違和感が押し寄せて来るのであった。  店中の顔がこちらへ向いた。スター菊園京子の威光である。そして京子は忽《たちま》ちの内に、ひと殻もふた殻もかぶった芸能人のポーズに変り、慣れ切ったさり気なさで快活に席へついた。  つくづく舌をまかされた。  デビューして二年である。歌手としてもまだ多少ぎごちなさが残っていて不思議はないのに、京子は二百年|彼方《かなた》からやって来た時の客である。何もかも新しずくめのはずなのに、けろりとすべてを呑《の》み込んで見事に順応しているのである。……女とはもともとこういうものか。それとも黒鳶式部がケタ外れの天才児なのか。恐らくその両方であろうと思った。  京子は紅茶、私はコーヒーを前にして、 「さて、どうしてもこいつだけは聞かなきゃならないぜ。神隠しってどういう具合いなんだい」  と切り出した。 「神隠しなんて知らないわよ。あたしそういう風に言われてるの……」 「いや、きみは十八歳、天明八年に病死したことになっている。だが俺は雪川公の日記を調べて、京伝さんが雪川公に神隠しだと言った記録を発見したんだ」 「あら、駒さんの日記があるの。見たいわ是非……貸してよ」 「俺が持ってるんじゃない。国会図書館にあるんだ」 「連れてって。国会図書館てどこなの」  京子はまるで私の妹のような調子でねだった。 「いいよ。暇を見て行こう。それより今はどうして二百年もとびこえちまったか、だ」 「いまなんじ」  私は京子を見つめたまま腕時計を見せた。 「あなただから言うけど、ほんとに便利なものね。森羅亭《しんらてい》さんにひとつ買って行ってあげたいわ」 「森羅亭万象か」 「そうよ。あのおじさんとっても新らしもん好きなの」 「そうか、森羅亭は平賀源内の弟子だったな」 「喜ぶだろうなァ」  京子はさも惜しそうに私の時計を見つめた。 「で、どうして二百年……」 「時間が足りないわ。NTVの仕事が十二時すぎに終るから、そしたらゆっくり話してあげる。どうせ打明けるならあたしだってじっくりお物語り申しあげたいもの」 「それもそうだ。しかしあら筋だけでも」  すると京子は悪戯っぽく笑って、 「ふふ……あなたもりそうみたい」  と言った。 「なんだそれ」 「こっちへ来る当座はやってたざれ言葉《ごと》よ。ああ……久しぶりに使っちゃった」 「もりそう……そうか、小便の我慢のことだな」  京子は楽しそうに笑った。お侠《きやん》な銀座娘たちの間で、そんな言い方が流行していたのだろう。友達も肉親も、言葉まで失っている京子を、私は憐れだと思った。 「なによ、ふっ切れない顔をしちゃって。あたしがこっちへ来たのは、つまり穴ぼこをくぐったからよ」 「穴ぼこ……」 「そう。町屋敷って言うのは倉がついてるの。ついてないのもあるけど、ちゃんとしたのはみんなついてるのよ。銀座の町屋敷はちゃんとしてたから倉があって、穴ぐらまであったの」 「地下室だな」 「ええ。でも湿気が強くて長いこと使わないであったんだけど、あたしはちっちゃいときからよく穴ぐらで遊んだわ。それで田沼さまのことがあった年に、その穴ぐらの隅の石がひとつ転がったら、今まで知らなかった横穴が見つかったのよ。しばらくしたら、その横穴の向う側が別な世界だって判ったの」 「田沼様のことというと、田沼|意次《おきつぐ》か……」 「違うわ。若いほう。意知《おきとも》。ご新番の佐野|政言《まさこと》という人が斬っちゃったの」 「世直し大明神だな」 「そう」 「天明四年か。するときみが不忍池でたぬぐい合せをした年じゃないか」 「あら、そんなことまで……」  京子は眼を丸くしていた。 「その地下室の横穴が、この昭和につながっていたというのかい」  京子は声をひそめ、そうなのよ……と幾分世話がかった言い方をした。 「に、ついてはいろいろとあったの。話してると長くなっちゃうから、あとでゆっくりにしましょうよ」  その気になって聞いてみると、京子の言葉のはしはしには、まだ色濃く江戸臭が漂っているようであった。そのことを言うと、京子はテーブルごしに口に手をあてて囁《ささや》きかけて来た。 「ふだん近所の子たちと喋っていたのは、今じゃあとても汚なくって聞けたもんじゃねェさ。丁度《ちようど》今の男言葉だもの。今の言葉は半分以上お武家言葉がへえってて、女言葉と来たら月とすっぽんさ。でもうちのあにさんはお武家言葉でちっちゃい時から暮していなすったから立派なもんさね」  アクセントもテンポもまるで外国語めいた昔の喋り方をして見せ、言い終ると恥ずかしそうに笑った。 「なるほどね」  私は感じ入ってそう言った。 「平吉の絵、くれる……」  京子は真面目な表情に戻って言った。 「あげるよ、明日にでも。しかし、なぜあの絵をそう欲しがる。懐かしいのかい」 「そう。だって、あの絵はあたしがこっちに来るお節供《せつく》の晩、平吉がお祝いだってくれたんですもの」 「平吉は岩瀬さんの使用人かい」  不思議なもので、私はいつの間にか京子、いや、およねの家を岩瀬さんとさんづけで言い、京伝を京伝さんと呼ぶようになっていた。 「そう。ずっとうちに奉公してたの。でも今じゃ一人前のご用聞きよ。銀座のこの字平吉って言えばみんな知ってるわ」  京子の時制は幾分混乱していた。 「この字……」 「そう。この字平吉。通り名よ」 「そうか。それでこ日記としてあったんだな」 「こ日記って……」 「そうだ、きみに助けてもらおう。平吉は日記をつけてたんだよ」 「まあ……」 「たぬぐい合せのあった日からだ」 「じゃあ十手をもらった次の日だわ」  そんなことがあったらしい。日記をつけはじめた理由がはっきりした。 「平吉は幾つだったんだい」 「いま二十四……かしら」 「馬鹿言うなよ、いまだなんて」 「あ、そうだわね。だと、天明八年十九歳」 「若い岡ッ引きだな」 「岡ッ引き……ご用聞きよ」  どうやら岡ッ引きはもっと後年の称であるらしい。 「惚れてたんじゃないかな、きみに」 「どうして……」 「日記を見ると判る」  ふうん、というように京子は考え込み、 「知ってたわ。いまそう言われて見ると、たしかにあたし気がついてた。……そう、日記に書いてるの」  としんみりした顔になった。 「とても読みづらいし、俺には判らないことが多すぎる。きみに教えてもらえば一遍にカタがつくと思うけど、どうだい」 「いいわ、あたしも見たいし」  若いウェイトレスがやって来て、口ごもりながら京子にサインをせがんだので、雰囲気は一度に二百年とび、流行歌手とコピーライターのいるテレビ時代の風景に戻ってしまった。  その夜おそく、ブラウン管にうつる菊園京子の顔は、どことなく淋《さび》し気であった。  東京の街なみはすぐ様相が変る。つい先ごろ銀座二丁目にあったキャバレーと、その隣り角の骨董屋も、今はもうなくなっている。  ところで、そのキャバレーが岩瀬一家の住んだ銀座町屋敷の跡である。町方の、今で言えば区役所と警察と裁判所をいっしょくたにしたような、行政の出先機関で、同時に住民の自治機関でもあった。岩瀬伝左衛門は安永二年、深川木場の質店伊勢屋から離別すると、一家をひきいてこの町屋敷に移った。大栄転である。一度婿に入った者が養家から除籍を受ければたいていは不幸の日々になるのが、支配地の広い銀座町屋敷の町役人になったのだから、ちょっと様子が変っている。町役人は名主で、たいていは旧家名家の当主がつとめており、また仮りにそうでなくても株さえ買えばなれないことはないが、氏素性人柄人気がしっかりしていなければ、そのような町方行政の要職を譲るわけもなかろう。  史家によって岩瀬家移住先を一丁目とも二丁目ともいうのは、伝左衛門がはじめからかなりの大世帯で来たため、二丁目町屋敷のほか、一丁目裏に借家してそこに家族の一部を起居させたためらしい。京子の話では五年後に許しを得て町屋敷に増築をするまで、岩瀬家は一丁目と二丁目の両方にあったということである。のちに京伝店が橋のきわに出来、更に元の借家を買い取って、有名な雅屋《がおく》山東庵を建てた。  とにかく、町屋敷の跡にキャバレーが建っていた。  京子が幼時から遊んだ倉の地下室は、そのキャバレーの地下室に、時代をへだてて重なっていたわけである。倉には町屋敷に必要な什器《じゆうき》備品のほか、支配地内の人別、宗門、訴訟、質入れつまり担保証書その他の記録が納められていて、のべつ関係者がそれを出し入れしていたから、日中はいつも開いていた。  京子は天明四年の三月、殿中で佐野善左衛門の刃傷があった頃、ふとしたことでその地下室に奇妙な横穴があいているのを知った。  結論から言うと、それはタイムスリップ現象の発生現場で、かなり長い間続いていたという。はじめは気にも留めず、悪戯《いたずら》に物を投げこんでみる程度だったが、二年ほどたつうち、穴の向う側で人が動いていることや、その穴が尋常なものではなく、壁も距離もない夢のような得体の知れぬ空間で向う側とつながっていることを知った。  何かしら危険を感じ、或る時兄京伝をつれ込んでそれを見せると、京伝はしばらく案じてから、これはときあならしいと結論した。  数多くの怪異譚を書き、また文壇には次々に未来記ものが登場していた時代で、今のSF作家的側面を持っていた京伝だけに、タイムスリップ現象についても理解があったのであろう。京子に穴を抜けるなと禁じ、ついでに強く口どめし、 「こういう物は文にしてこそ面白いのだ。実物が知れて世間が見物に押し寄せては、折角の夢見る楽しさが失われてしまう」  そう言って京伝は以後口にもせず忘れ去ったようにしていた。  京子は兄京伝に心服し切っていて、そういう京伝の理屈をそのまま自分のものにしていたが、年が若いだけに好奇心が消えず、時々穴の向うを眺《なが》めて小半日も地下室にこもっていたという。  穴の向うは昭和のキャバレーの地下室で、京子の側から見れば別世界であった。しかしこの別世界はひどくうらぶれていた。三畳の畳敷きと、催し物に使った造花の桜や柳が壁にそって建てかけてある殺風景な物置きであった。白ペンキを塗ったワゴンは客にスピードくじを引かせるときのくじ入れだし、ベニヤを切り抜いて表に波を描いた紙が貼ってあるのは、大漁節のショーに使ったものである。だが、タイムスリップという稀有《けう》の奇現象で生じたその時穴《ときあな》から覗けば、いつも桜が満開で、青々とした柳があって、柳桜をこきまぜた中に白い波がしらをたてた海原が続く天下の絶景であった。キャバレーの桜まつりや柳まつり、スピードくじや民謡ショーがどれほど味気なく、また欲の皮まるだしのいやらしいものか知るはずもない江戸娘が、それらをうっとりと眺め暮したであろうことは想像に難くない。  だがそれはそれまでのこと。京子……いや江戸のおよねにはその時代の毎日があった。  万事派手であった。  お乳母日傘《んばひがさ》とまで大仰には構えないが、ほぼそれに準じた育てられ方で、母方の叔母お勢が大名の寵を独占していることでも判るとおり、美貌の血を享けている。父は町役人として江戸中に知れた名士、まして兄京伝の伝蔵が作家の名のりを挙げてからは、岩瀬家の名声は日ましにあがり、およね自身も文筆の才があって黒鳶式部の名で知られる。天明中期はむしろおよねの方に人気があるくらいで、ひと目見ようとはるばる内藤新宿あたりから弁当持ちでやって来て、町屋敷のまわりをのそのそと日がな一日歩きまわる郊外の閑人もいるくらいであった。  出版ジャーナリズムの興隆とともに話芸も興っている。天明六年四月、江戸落語中興の祖といわれる烏亭焉馬《うていえんば》が第一回目の咄《はなし》の会を向島の料亭武蔵屋で開催し、百人以上の戯作者狂歌師連が集った。もちろんおよねも出席している。  この時代すでに落語は三升《みます》、桜川、三遊亭などの屋号が発生し、講釈もそれ以前享保年間に志道軒《しどうけん》が出て隆盛の一途を辿《たど》っていた。  つまり、重ね合わせれば一億総タレント化時代の今日と同じ様相を呈し、青年ご用聞き平吉が発句のひとつもひねろうという、そういう時代のトップクラスのスターが京伝やおよねだったのである。  京子に言われて気づいたのだが、現在の落語家達の高座態度を見ても判るとおり、こうしたタイプのスター……芸能人、いや、作家を含めたタレントたちは、一様に老けて見せる傾向があった。それは時代の教養として、故事古文に通暁しなければならず、大衆に対してそれを示すとき、若々しくてはなんともサマにならなかったからである。現に京伝も二十七歳のときすでに山東隠士京伝老人という署名を残している。韜晦《とうかい》と言えば言えるが、それ以上に老成という状態への志向が、この時代の人々の美意識に根強く蔓延《はびこ》っていたのであろう。  当然およねもそうした。彼女の、いや黒鳶式部のイメージは二十四、五歳に設定されていたらしい。およね本体も早婚時代の娘としていっそう早熟な天才児であって、天明五、六年当時、すでに一人前の男性の恋の対象になり得たという。  何しろ二十七、八歳の作家が極端な場合九十九翁などと文中で自称し、そのため後世の研究家が年齢を六十歳もとり違え、享年を算出したら百数十歳になってしまったという実例があるくらいである。京子の言によると駒さんこと松平雪川公は平吉よりわずかに年長の二十二歳であったというのに、文献を当ると京伝より七つほど年嵩《としかさ》にされている。  これは私の臆測であるが、狂歌や発句をものした雪川公も、当時の風潮に従って年齢を水まししたのだろう。それが彼の身分から来る権威の影響で史上に定着してしまったと考えられる。  およねと松平|衍親《のぶちか》……つまりスター黒鳶式部と雪川公の間に恋が芽生えていた。週刊誌があれば飛びつくネタである。片やのちに十八大通の一人に挙げられたプレイボーイ、片や美貌の女流作家。両者とも派手な話題をふりまいて世の注視を浴びている有名人だから、当然のことながら噂は口から口へ囁かれて行く。  田沼時代が終り寛政改革が動き出している。やがて風俗倹約令が出され奢侈《しやし》が禁じられ、旗本奥女中等に大量の処分者が出ることになるのだが、その直前である。既に時代の行方は定まり、幕閣の動向は松平侯クラスには手にとるように判っている。雪川公の派手な動きを封ずる策が講じられ、殊に黒鳶式部とのスキャンダルは藩をかけて回避させねばならない情勢であった。  所詮、悲恋であった。天明八年三月の節供の宵、破局がおとずれた。黒鳶式部をホステスに置いて企画された日本橋の料亭|百川《ももかわ》での歌合せに雪川公は顔を見せず、かわりに留守居役磯村兵太夫が乗り込んで来た。  折悪しくおよねは座興に芸妓の衣裳をつけていて、お家大事一途の磯村兵太夫に毒婦呼ばわりをされ、兄京伝ともども雪川公との絶縁を誓約させられてしまった。  その会は雪川公グループだけの内輪の集りで、グループ内だけでも黒鳶式部と雪川公の恋仲を公認してやろうではないかという、悪戯半分の披露パーティーだったらしい。  しかしおよねにとっては嬉しい会であった。将来とも正室になれる望みはないものの、駒さんを生涯のうしろだてとして、文筆一途に華々しく生きる未来を夢みていただけに、この破局に絶望してしまった。  京伝はその時、時勢の転換を説いて松平家の立場をおよねに訓《さと》す立場に回ったという。およねには京伝の言う意味が判りはしたが、雪川公が自分で説明に来なかったこと、愛と身分の比重の問題などを言いたてて泣きじゃくり、一人で銀座へ帰ってしまった。  そういうことがあった晩、平吉は何も知らずに自作の墨画をおよねに献じたのだ。雪川公とのことはもちろん知っていて、京伝好みのなんとなく洒落めかした中に、実は祝言のまねごとのような意味をちらつかせた今夜の宴を祝うつもりだったのであろう。   月と葦 浮いたばかりの 土左衛門  祝いとしては不吉な句であるが、それをとびきり下手糞な筆さばきが救っている。京伝やおよねが見たら吹き出さずにはいられない作品なのを計算していたのだろう。  およねはそれを受けとり、雅号がないのは淋しいと言って、この字平吉にちなんだ弧人の名を与えた。平吉はひどく嬉しがって早速筆をとり、弧人、と書きそえたという。  ……その絵が私の手もとにまわって来た絵なのである。多摩川畔で私が弧人の名を出したとき、京子が異様な反応を示したのはだから当然のことであった。  哀しいとき、せつないとき、およねは倉の時穴《ときあな》の前で、じっと柳桜をこきまぜた動かぬ磯辺の景色を眺めることにしていた。手燭を持って穴ぐらへ降り、時穴の向うに見える別世界をみつめていると、急にその視界の中ヘ一人の若者が入って来た。  それは後で菊園京子のマネージャーになった仙田であった。 「向う側へ抜けたらどうなるか……いえ、抜けられるかどうかもはっきりとは判らなかったの」  テレビのナイトショーが終ったあと、京子は麹町のマンションの一室で長い物語をはじめ、その中途で仙田の顔を見やりながらそう言った。仙田ははじめ京子が私に秘密を知られてしまったのをひどく悔やんで、だから一人歩きをさせたくなかったんだ、などとうらみがましく言ったりしていたが、やがて気を取り直したらしくその後の事情をすすんで説明してくれた。 「死ぬ気だったんですよ」  仙田はそう補足する。「でもこっちは驚きましたよ。芸者の幽霊が出たんですからね」  ……仙田は当時中央装飾社というディスプレイやインテリア・デザインを扱う会社の社員であった。そのジャンルは宣伝のそれと半ばあい重なっており、中央装飾社の名は私も聞き知っていた。  中央装飾はこのとき、銀座二丁目のキャバレーの改装を請負っていて、その下見に仙田が派遣されていたのだ。時間は昼の一時ごろ。彼は換気ダクトを辿って地下へ降りていた。機械室は京子が出た物置きの隣りであったという。  物置きいっぱいに造りものの桜や柳の樹が並んでいて、仙田側から見ると京子の姿ははじめ色も立体感もない虚像のように、うすぼんやりとその柳の木の間へ出た。偶然のことながら、まさにおあつらえであった。  およねは芸妓姿のままで時穴《ときあな》へ身を投げた。何とも得体の知れぬ虚の空間の向うに見える柳桜の景色に向って夢中で体を伸していた。  そのとき、天明の銀座では京伝が叫んでいた。 「およね、戻って来い」  ……京伝は日本橋の百川《ももかわ》で、およねがまさか芸妓姿のまま帰りはすまいと高をくくって白けた座をとりなしていたが意外に戻るのが遅いので気になり、二階から降りて帳場に訊ねると、駕籠を呼んでそのまま帰ったという。  感じやすいとし頃である。まして普段並外れて気丈なだけに、思いつめたら何をするか判らない。……京伝はうろたえて銀座へ駆け、家の中にいないのを知って、さてこそと血相変えて倉の穴ぐらへとびこみ、その階段の中途から時穴でかすみかけているおよねを呼びとめた。 「あにさん……」  およねも中間で叫んだ。その声が、いや想念が、時穴の両側にいる二人の男へ同時に届いた。 「あにさん、勘忍。でもあたし駒さんの邪魔になりたくない」  そういう意志と共に、黒鳶式部岩瀬およねの情念が、時代をへだてた二人の男の脳へ、直接ぶち撒けるように届いた。  京伝にどう響いたか、彼はこの件に関して一切書き残していないので知る由もないが、仙田は惚気《のろけ》半分にこう言っている。 「あんなに感動したことはありませんでした。燃えるように一途な女心が、それはそれは美しく、しっとりときめこまやかに僕の心へ流れ込んで来たのです。一瞬の間に何もかも事情が理解できました。それは京子の全生命、すべての記憶がさらけ出されていたからです。筋を辿った理屈ではなくて、二度と味わえない心の触れ合いでした」  肉の交わりの記憶は、そのときおよねが我知らずさらけ出したものの中になかった。雪川公との仲は純粋にプラトニックなものであった。……いま堰《せ》かれても、駒さんはきっとあたしのことを追ってくれるに違いない。でも駒さんはご大身の、それもとかく公儀から眼をつけられているお家をまもらねばならぬ身に生まれついてしまっている。大好きな駒さんのためなら、この世から消えてしまっても悔いはない。  寛政改革前夜の、音を軋《きし》ませて揺れ曲るような時の流れの中で、一人の美しい娘が松江藩十八万六千石を救おうとしていた。当主不昧公は松江藩黄金時代を現出した名君で、先代|宗衍《むねのぶ》公が江戸市中に「出羽様御滅亡」の噂をたてられたほどの貧乏藩を一挙に建て直した人物であったが、それだけに硬骨……田沼時代も贈賄を断ち、殊更「知足は聖人の教えるところ」と称えて要路の神経を刺激していた。  百川《ももかわ》における兄京伝の説諭でそうした時代の様相が判っている。京伝にしたところで、いつまで作家活動が続けられるか判らない不安な空気の中にいる。言論弾圧は時の勢いで、この美しい天才児の行末を思えばこそ、雪川公との仲を思いとどまらせなければならないと決意している。どうやら京伝の真意は、雛《ひな》の節供にことよせて、それとなく別離の宴を催したつもりであったらしい。  そこへ明日の暗い時代を先どりしたような留守居役磯村兵太夫の登場である。およねが時穴に消えかけているのを知って声をかけた瞬間、その言葉とはうらはらに「行かせてやろう」……そう決意したらしい。ふたつの時空の中間で、およねは兄京伝のそうした思いも、こちら側の仙田の好意も、その両方が流れるように心の中へしみ通って来たという。 「それじゃあ、あにさん」 「そんなら、およね……」  丁、と柝《き》が入る場面があって、およねは仙田側へとその実体を移した。  およねの転移が彼女にとって幸であったか不幸であったか、私ごときに判定することはむずかしい。しかし、少くともその直後から言論弾圧がはじまり、三年後の寛政三年に京伝は手鎖五十日の刑を受けている。およねを後援した朋誠堂喜三二も『文武二道万石通《ぶんぶにどうまんごくどおし》』で禁に触れ、主家の圧迫で以後筆を折ってしまうし、恋川春町などは主家にまで累が及びそうになって「生涯苦楽、四十六年、即今脱却、浩然帰天」と辞世を残して割腹自殺をとげている。そのほか唐来参和が絶版を命じられたのをはじめ、式亭三馬、十返舎一九、柳亭種彦《りゆうていたねひこ》、為永春水《ためながしゆんすい》と、あい次いで罪を受け、遂に無傷だったのは石頭の馬琴ぐらいなものであった。  京伝の生きた時代は、昭和元禄の現在と非常に相似した時代相を呈している。  政界は腐敗し権力の専横が著しい。財界はそれと密着し資本が寡占化している。遊芸が栄え人々がレジャーをたのしんでいる一方、各地に深刻な飢饉その他が発生し、北方領土にロシアの脅威がしのび寄り、長崎には持て余すほどの外交問題が山積している。しかも維新への底流が姿を現わし、尊号問題で高山彦九郎が割腹している。近代科学が発芽しエレキテールの見世物が流行し、そして出版ジャーナリズムが極限にまで登りつめている。松平定信のような人物が社会の再建をはかっても金融引締め奢侈禁止はそっぽを向かれ、そのくせそれに媚びた心学の徒が大きな顔をする。だが民衆をひきずる力を持った文化人たちは、そうした時代の問題点を避けてとおり、蜀山人は遠山の金さんに従って長崎の外交舞台を踏んでいるのに能吏の仮面にかくれてしまう。主義に殉じて屠腹《とふく》する者、保守陣営に身を潜める者、テレビショーのレギュラーとしてタレント化する者……文壇ひとつとって見ても今日と余り変らない。  二つの時代を銀座の時穴《ときあな》がつないでいるというのは、この相似と果して無関係なのであろうか。  さて、およねはこちら側へ来てしまった。一瞬の内に時穴の正体はじめ、およねの事情、人となりなどを理解させられてしまった仙田は、それが宿命ででもあったかのように、一途におよねの力になろうとした。ひょっとするとそこにははかり知れぬ時空の力が作用しているのかも知れない。  およねをそこへ置いて、無人のキャバレーの楽屋うらへ行き、ホステス用のロッカーから女の服を盗んで来ると、芸妓姿のおよねにその着方を教えてやった。髪を解き、長すぎるのを思い切って鋏でつめると現代娘ができあがる。天与の麗質というのであろうか、椅子のない江戸下町の育ちにもかかわらず、およねの脚はスラリと伸びていて、ミニスカートがよく似合う。  そうこうしている内に、さっきおよねが現われた辺りから京伝の姿がうすぼんやりと浮きあがり、その想念が二人に呼びかけた。 「そこの人、およねをおたのみ申します」  時穴《ときあな》へ半分以上身をのり出したらしい京伝は、妹への深い愛情をほとばしらせつつ、紫色の袱紗《ふくさ》包みを昭和の銀座へ投げてよこした。向うで大急ぎに母屋へとってかえし、その包みを持って来たのだろう。  虚空の一角から袱紗包みは実体となって物置きの空間に現われ、埃りのつもったコンクリートの床に落ちてガシャリと割れた。チーン……と冴えた余韻を残して、そこに山吹色の黄金が輝いた。およねは身をかがめてその一枚を拾いあげ、 「まあ、あにさんこんな……」  と愕いた。仙田にもそれが小判であることは判ったが、いったいどれくらいのものか見当もつかないでいた。  普通の小判ではない。有名な正徳・享保金である。正徳四年新井白石の馬鹿げた理想論から、純度八十四パーセントを超える極端に良質な通貨が発行された。秀吉が造った史上最高の慶長小判の昔に戻すべく、全く同純度の通貨を鋳造したのである。通用した期間は短く、僅か二十年余りで元文金銀に交替させられ、何度も退蔵を厳禁する布告が出されて、所持することが危険な死貨であった。  それが百枚……現在の古銭市場では慶長小判一枚に約六十万円の価がついている。およねの時代でさえ、その交換率は相当な高さにのぼっていたはずである。  価値の見当もつかぬまま、それを仙田がひろい集めているとき、およねは非常に重大な行動を起した。物置きの隅に積んであった紙の束に目を留めると、流石天才女流作家だけあってそれがこちら側の書物であることを察し、時空の中間帯から名残り惜しげに身を引きかけている京伝に向って、それを抛り投げたのである。  こちら側では愚にもつかない古雑誌の束が、天明八年三月三日の銀座町屋敷の一角へ投げ込まれたのだ。  およねが転移し、京伝が小判百枚を転移させ、いままたおよねが古雑誌を江戸時代へ転移させたことが、異るふたつの時空の物理現象を渦動させ、その時以来銀座の時穴《ときあな》は活発に変化しはじめたのであった。  仙田は自分のアパートへおよねを案内し、そこにかくまって現代人教育をはじめた。およねは聡明であるばかりでなく、柔軟な適応性に恵まれていて、瞬く内に江戸臭を消して行く。現代東京人から見れば、土地は同一でも天明の江戸人は田舎者である。しかし、だからと言ってこの場合およねが直面した問題はそうむずかしいものではなかった。  要するに地方から出て来た娘が東京という都会に慣れるだけのはなしである。まして気丈な負けずぎらいの、第一級文化人だったプライドに燃えるおよねである。瞬く内に言葉も動作も物の考え方も、疑いようのない現代娘になってしまった。  となると、恵まれた資質は現代でも輝き出し、およね自身じっとしていられない衝動に駆られる。あでやかに生きたい、派手に活動したい、いろいろな世界を見たい……つまりスターになりたい。  この点でも、若い地方出身娘が持つ公約数的願望と大差ない。しかしおよねの場合前身が前身だけにそれはいっそう強烈で、仙田がその気迫に気おされるくらいであった。  人一倍おしゃれもしたい、カラーテレビも欲しい、車も持ちたい、マンションに住みたい……江戸時代にもそういう面は持っていたのだろうが、それが消費時代にとび込んで一挙に枷《かせ》が外れ、仙田ごときの手に余る浪費ぶりを示した。資金の出どころはひとつ、例の正徳小判である。  銀座を知る現代人は二丁目のキャバレーのとなりに骨董屋があったのを、まだ忘れはしないであろう。キャバレーの時穴《ときあな》につながる縁で、仙田はなんということなしにその骨董屋に小判を持ち込んだ。  一枚二枚と売っている内に、りゅうとした身なりで馬鹿に盛り場のあちこちに顔が効き、そのくせ定職もなくさりとてやくざ愚連隊のたぐいでもない、という怪し気な男の興味をひいてしまった。  その男は植村繁といい、一時問題のキャバレーの支配人をしていただけに、となりの骨董屋とも親しくしていた。そして植村は仙田という若い男が、正徳小判を大量に所有していると睨んだのである。  親から譲り受けたかどうかして、大量の正徳小判を握っている世間知らずを口説いて、一挙にそれを換金させれば、百万やそこらのサヤをとるのはいとたやすいこと。……植村の肚は見えすいていて、しつっこく仙田にまつわりついた。美貌のおよねにも食指を動かし、二人の部屋へ気安げに顔を出すようになった或る日、植村はそこで意外な尻ッぽを掴んでしまった。  仙田がキャバレーのロッカーから盗み出しておよねに着せたブラウスとスカートである。それは植村の情婦でホステスをしている伊藤芳子のものであった。  それでなくても仙田やおよねの様子には不審な点があるのに気づいていた植村は、そのスカートとブラウスをネタに若い二人を脅しあげ、居もしない背後の暴力団や警察とのつながりをちらつかせて、小判をとりあげようとした。伊藤芳子を連れて来て盗品の確認をさせたり、その露骨さに二人とも閉口してしまった。  日毎夜毎の脅しにノイローゼ気味となった二人は、それを京伝に相談しようということになり、仙田は仕事にかこつけて昼間のキャバレーにもぐり込んだ。  だが、植村と伊藤芳子にあとをつけられてしまったのである。植村と芳子はキャバレーに何かが隠されていると、二人の様子から薄々勘づいていて、ひょっとしたら小判の出所ではないかと話し合ったりしていたのだ。銀座の地下から古い貨幣が出るのはよく聞く話である。  つけて行くと案の定まっすぐ地下の物置きへ向う。こいつは本命だとほくそ笑みながら陰で見ていると、物置きに踏み台を作って何やらやっている。……仙田は恐いもの知らずに時穴《ときあな》を抜けて向う側をたずねようとしていたのだ。  それは異様な光景だったに違いない。しかし欲に眼が眩んだ二人には、宝の山へ入る入口に見えた。とび出して行って半身かすませかけた仙田の足を引っぱり、撲《なぐ》り倒すと助け合いながら二人で時穴へもぐり込んでしまった。  ……そして穴の向うでどうなったか。それを知る手がかりは『日記』享和三年九月十一日の項以外に何もない。  ○十一日 庚申《かのえさる》北ヨリ風アリ晴   朝ヨリ竝木町へ行。いよいよ暇也。夕景馬喰丁附木店辺小火、一寸也。   夜半町屋敷お倉に賊、大騒動也。男女二名風体奇怪、女賊腰巻ひとつ髪ふり乱様、こと更凄ジ。乱闘小半刻、男ノミ取押女賊ノガル。暁方細川さま御カケ付御取調トモ埒なし、生国判ラズ言い様おかし。長谷川さま手方御通寄りなされ、南ばん太夫など申居たり。朝マデ木戸番屋、翌朝之記。  ……この年記録によれば京伝は浅草並木町に菓子店を開業したが、商いは思わしくいかず失敗している。平吉は朝一番でその店へ使いに行き、店が暇だと嘆いている。夕方馬喰町の附木店から失火したが大したことはなかったらしい。そして夜に入り、町屋敷に賊が入って大騒ぎになったと明記している。  賊が男女二人づれだったことや女のほうの風体が記されていることから、私は植村繁と伊藤芳子の二人は、この時点へ現われていると確信している。  腰巻ひとつ髪ふり乱しさまが殊更凄まじかった、というが、スカートにショートカットの伊藤芳子が色気も何もない鬼女に見えたのであろう。そして乱闘にまぎれて芳子は逃げ、植村は逮捕されてしまった。  官辺に報告が回ったのはあけ方らしく、京伝門下鼻山人こと与力細川浪次郎が一大事と駆けつけ、吟味をするが一向にはっきりしない、生国不明で喋り方も変だ。丁度火付盗賊方の長谷川平蔵の配下が通りかかり、細川浪次郎と共に調べたが、結局南蛮太夫というオランダ服を売物にした曲芸師に似ているようだというだけで何も判らずじまいだった。平吉は京橋橋詰の番小屋で夜を明し、翌朝帰宅してから日記にそのことを書いた。  この頃には平吉の日記のつけ方もだいぶ進歩している。  問題は日付である。享和三年は一八〇三年で、およねがこちら側へ来たのが一七八八年……それから一年半しかこちら側では経過していないのに、向うでは十数年たっている。両者をつなぐ時穴《ときあな》が脈動をはじめ、時空の関係が乱れはじめていたのだ。  だとすれば、植村と芳子の転移でそれはなおさらひどくなったはずである。  ○十三日 壬戌《みずのえいぬ》 薄曇   今朝盗賊加役方寄場送 右細川さま御取計之事有難シ サテモ穴奇妙也  ……一日置いた十三日の平吉の日記は簡潔である。朝早く植村繁が石川島の人足寄場に送られ、それは細川浪次郎の特別の処置であったと述べている。  たしかにいくらなんでもこの処分は早すぎる。石川島の人足寄場は寛政二年に新設された一種の拘置所である。京伝は植村の件について、時穴の存在を関係者に打明けざるを得なかったのだろう。だからこそ、与力細川浪次郎は非常措置をとり、京伝一家の秘密を保ったのである。そして平吉は、「サテモ穴奇妙也」と言っただけで筆を擱《お》いてしまったのだ。  曲亭馬琴が伊波伝毛乃記で、その家に秘事あり、とちらつかせたのは、ひょっとするとこれを知ってのことではなかろうか……。  伊藤芳子はおよねと丁度同じ年齢であった。その後菊園京子という芸名でマスコミの世界へ進出して行った経緯は、多くの週刊誌などが既に根ほり葉ほり書きつらねたとおりである。京子、つまりおよねの戸籍を調べると、その本名は伊藤芳子になっている。仙田の策でそのまま頂いてしまったのだ。芸名の菊園は天明当時京伝の想い者で、のち寛政二年に最初の妻となった吉原江戸町扇屋宇右衛門方番頭新造の菊園の名をそのまま姓にし、京伝ちなみの京を一字とって京子とした。  平吉はどうしたであろうか。  私は京子の協力で『日記』の解読をすすめて行った。だが奇妙なことに、平吉の日記は「穴奇妙也」のあと文化四年二月ごろまでひどく粗略になっていて、まるでそれまでのつけようとは違っている。気がないのだ。そして、文化四年三月三日以降、いきなり明治二十八年へ飛んでいる。  ○三月三日 丙辰《ひのえたつ》晴   朝飯後町や敷祝儀罷出トモ米無キ后取立祝可事も之無也 伝さまと話ス 宵倉穴ヲ見ル今宵行可也 夜万端取片付家内清掃  ……平吉の文字は更に一段と進歩しているが、ここまで語ればもう説明を加える要もないであろう。思い出の雛まつりの宵、平吉は身のまわりの整理をすませ時穴《ときあな》へ入ったのだ。  生き甲斐を失っていたのかも知れない。三月三日という日付は、彼のおよねへの慕情を物語って余りある。  だとすると、仙田と既に夫婦関係を結んでいる京子は、平吉に対してどういう態度をとればよいのだろう。私と京子は仙田を混えずに、二人だけでそのことを語り合った。しかし、人の世の、人と人とのからみ合いの不思議さを、どう変えどうとりつくろうべきも発見できぬまま、もし平吉に逢うことがあったら、すべてを率直に打明けるしかないと結論せざるを得なかった。  それにしても、逢う可能性はまずなかった。明治二十八年から日記が再開されている以上、平吉は乱れた時の道を辿ってそのあたりへ出現し、今はもう鬼籍に入っているに違いないのだ。 「でもねえ……」  京子は言いづらそうに眉を寄せてそう言った。「平吉だってあたしのこと、そう恨みはしないと思うのよ」 「なぜだい」  スターの生活に憧れる若い娘達の夢をそのままかためたような、華やかなムードの菊園京子の部屋で、私はそう問い返した。 「だって……」  京子はなおも言い澱み、しばらく間を置いてから、「この字平吉って仇名《あだな》は、あにさんがまだ子供の頃つけたのよ。寒い冬の日に、両手を着物の袖口にかくして、奴凧《やつこだこ》のように京橋を渡って来るのが、まるでこの字のように見えたんですって。……ひどい蟹股《がにまた》だったのよ」  私は裏切られたような感じで、そんな平吉の姿を心の中に描き直して見た。恋に悩むいなせな青年ご用聞き……手前に黒鳶式部と雪川公のよりそう姿があって、その背景の橋のたもとの柳の下で、力なくうなだれている美青年……そんな構図の浮世絵を心に浮べつづけて来た私は、ひどい蟹股の平吉をどうしても想像する気になれなかったのである。 『日記』……その命名に平吉の自虐の笑いがあったような気がして、私はなんとも言えぬ情けない気分を味わった。江戸中に知れ渡ったこの字平吉の名……その変体仮名で書かれた『※』の字の意味を、なんと私はいい気に解釈していたことであろう。  それはさて置き、私の『日記』研究は意外な方向へ発展して行った。京伝にたのまれる使いの行き先に、天明の雛まつり以後或る傾向があらわれているのだ。十一屋五郎兵衛、伊能忠敬、杉田玄白、宇田川玄随、志筑忠雄、桂川甫周、本木良永、そして橋本宗吉らの名がひんぱんに登場してくるのである。  私は京伝が文学者でありながら、なぜこうも理科系統の人々と交際を深めたのか不思議に思った。しかも様子では京伝自身はこれらの人々と直接会おうとはしていないらしい。  私はハタと思い当った。こちら側へ出て小判をもらったとき、およねは古雑誌の束を向う側へ投げ出したのである。……それがどんな内容のものを含んでいたか、全く判らない。しかし、京伝がそれらの記事から選び出した昭和の知識を、江戸の先駆者たちにひそかに与えて、その諸研究の助言者となっていたのではあるまいか。十一屋五郎兵衛こと間《はざま》重富の天動説、伊能忠敬の日本地図、杉田玄白らの新医学、本木良永の星雲起源説などは京伝の指示した方向に進むことによってはじめて成立した事業ではなかっただろうか。  その真偽をたしかめるためには、まだ相当の時間が私には必要である。  そしてあの菊園京子の奇禍である。東名高速を名古屋から東上中、仙田もろとも観光バスに追突されて死んでしまった。  マスコミはもう彼女のことを忘れ去ったようにしているが、まだ時折り街では京子の唄声を聞くことができる。私はそのたびに泪ぐまずにはいられないのである。  私は京子に恋していたのかも知れない。敬愛する北尾政演、山東京伝の妹である彼女が、私の心の奥深くにそういう感情を芽生えさせていたのは、むしろ当然かも知れない。  追悼の意味もあって、私は一日三島の在へ引っ越した田島老人をたずねた。田島老人は新居から少し離れたところにある植木園の手伝いをして、気ままな余生を愉しんでいた。 「俺のおやじという人は明治三十七年に、四十前の若さで死んじまったのさ」  田島老人は植木園の一隅で、眼を細めて盆栽の松を眺めながら、鋏を鳴らしそう言った。「……俺がみっつの時だったかなあ。よくは覚えてないが、そうそう、大変な蟹股でなア」  小春日和の穏やかな日ざしの中で小鳥の声がいくつも重なり合い、富士山の頂上に白い雲が流れていた。  文化元年、山東京伝は『近世奇跡考』を著している。  幽タレ考  早いもんですね。あなたにお会いして、今ふっと気がついたんですが、広告の世界へはいってから、もう十年になりますよ。——ということは、あなたとも十年間のごぶさたってことになるわけですね。  ええ、はじめから制作部門です。最初は印刷媒体を専門にしてたんですが、いつとはなしに電波の担当になってしまって、CMに追いまわされてるわけです。——いいえ、本当に追いまわされてるんです。仕事を追いかけるなんて、夢のまた夢ですよ。何しろあなた、スポンサーって怪獣が制作期間をどんどん食い荒すでしょ。我々の部門へ仕事がおりてくる時には、いつでも締切りが迫ってるんです。そりゃ、うまくやればたっぷり時間を取ることだってできます。けれど、それには営業部の連中の協力がありませんとね。ま、とにかく我々は消耗品みたいなもんですよ。少年雑誌のマンガの傾向から、若い女の子向けの週刊誌の話題。ソープの次には何がはやりそうか——つまり、いつでも世の中の流行というものの先っぽに反応できてないと、あの野郎ズレはじめた、とかね。いいえ本当ですよ。そりゃ厳しいもんです。もっと高度なところでの厳しさならいいんですがねえ。イラスト専門とか、それからカメラマンとか。そういった人たちは多少違いますよ。彼らは年期を入れ、名前も売れてくれば仕事も増え、ギャラもあがってきます。しかし僕らは広告代理店の、いわばプロデューサーでしょ。広告に関する表現技術のトータルとして、いつもそれを時流にのせとかなきゃならないんです。だから結局は下剋上《げこくじよう》です。流行——次の流行を肌で感じ取っていられる若さが勝つんです。僕もこの仕事に入りたての時分、先輩たちに対して感覚の若さを武器に挑みかかって行きましたし、それでだんだんに給料も増やして行ったんです。——どうしようもないことには、毎年ひとつずつ齢をとりますものね。今じゃやられるほうです。弱気で言うんじゃなく、それが広告の世界での制作者なんですよ。もっとも、これは多かれ少なかれ、どの社会にもあることなんで、僕らの所では特に回転が早いってことなんですね。——ま、はかない商売です。せいぜいCMの中で流行語を作って、世間の会話にそれがチラホラ混じり出すと、あ、はやったはやった、と言って嬉しがるくらいが関の山で、浅はかなもんです。  時にはスポンサーのご威光をカサに着て、テレビの番組企画にタッチさせてもらうこともなくはありません。めったにありゃしませんがね。——中央テレビの『愛の劇場』ね、あれは半分ぐらい僕の意見が通ってできたんです。もうずいぶん続いていますが。ええ、スポンサーもおりられないでしょ。ずいぶん話題になりましたからね。東日生命って会社は、あれで他社をグーンと引き離した時期がありますから。え、幽タレ——。嫌《いや》だな、あの話は週刊誌なんかでさんざん書きつくされたじゃないですか。  ——そんなにおっしゃるんなら、少しお喋《しやべ》りさせてもらいましょうか。だいたい幽タレってのは、いつだかはっきりしないんですが、僕がつけた仇名《あだな》なんです。幽霊タレント。略して幽タレです。一種の悪口でね、面と向って本人にそう言ったことはありません。でも自分で時々言ってましたよ。どうせ幽タレなんですから、なんてね。自嘲ですよ、彼の。  あれは三年前の十月の中旬でした。東日生命のCMタレントで、準専属といった形の井沢貞一が、ポックリ死んじまったんです。『愛の劇場』という番組がスタートしてから二年というもの、ずっとそのCMに出演してたのが、突然死んじゃったもんですから、僕らはずいぶん慌《あわ》てさせられました。毎週木曜日の九時から四十五分間、二十七局ネットしてますから、ウチの会社としても大きな扱いだったんです。CM時間はオープニングを入れても五分に足りませんが、とにかく大変なさわぎだったんです。特に目の前に迫った十一月という月は、生保も損保もひっくるめて、一種の契約増強月間みたいなもんでしてね。十一月は生命保険の月です。とか、損害保険の月ですとか言って、特にPRに力を入れるんです。  東日生命は毎年十一月のCMを、生CMでやることにしてるんです。他社がどんな新しい戦法で出てくるか判りませんし、それらにすぐ対処できるよう、いわば生CMは機動性を重んじたわけです。  ところが肝心の井沢貞一が死んで、その機動性が裏目に出ちゃったんです。  かわりを見つければいいんです、CMタレントのね。——ところがそれがむずかしい。僕らは百枚以上の顔写真を、東日生命の広報課に持ちこみましたが、どれひとつ、これがよさそうだということにはならない。——広報課の課長は瀬戸さんと言いましてね。典型的なスポンサーなんだな、これが。  理由は、うちのイメージに合わん、ということです——いきさつがあるんです。だいたい『愛の劇場』をスタートさせる時CMタレントに井沢貞一を起用したのは僕なんです。当時瀬戸さんは広報課長になったばかりでして、万事がおまかせムードだったんです。井沢の起用についても、こっちが気抜けするくらいあっさりOKをくれたんですよ。ところがその第一回が放映されたあくる日、瀬戸さんは社長に呼ばれ、あのコマーシャルはたいへんよろしい。今後もあの男を使うようにって、お褒《ほ》めの言葉を頂いちゃったんです。  それ以来、井沢貞一は東日生命のイメージであり、東日生命のイメージは井沢貞一ってことになったわけです。覚えておいででしょう。井沢貞一の、平凡で、穏やかで、どこか人形めいた品の良さを。考えてみれば、生命保険会社の企業イメージを代表させるには、まったくもってこいのタレントでした。  そのかわりが見つからない。——当り前なんです。東日生命の企業イメージは、井沢貞一を連れてきてはじめて出来上ったんです。それまでは企業イメージなんてことすら考えてなかったんです。かわりのあるはずがありません。生保の本社社員なんて、宮仕えの最たるもんですからね。瀬戸課長としては、そこで決断することが出来ないんです。タレント変更、すなわち企業イメージが変っちまう——妙な理屈だとお思いでしょうが、井沢貞一のキャラクターを自然発生的に自社の企業イメージに置き換えてしまって、それを完全に混同しちまってるんですから、井沢貞一の双生児《ふたご》の兄弟でも持ってこなきゃ納まらないんです。会議、会議、会議——会議の連続で、僕なんかノイローゼになりかけていました。  ふつうテレビCMの準備には一週間はもらいませんと——フィルムの場合にはもっとずっと多い日数が必要です。タレントが決まらないならフィルムで、ということで、絵コンテなんかもずいぶん書かされましたが、十月下旬に入っては、それも時間切れです。第一木曜は十一月の五日。困り果てた十月の晦日《みそか》の午後二時半ごろでした。  御存じでしょうが、東日生命の本社は大手町にあって、僕たちはその七階の第二会議室という部屋で、飽き飽きした会議を、しょうこともなくまたやっていました。——要するに瀬戸課長の決断待ちです。僕は腹の中で、会議会議で時間切れへ追いこめば何とかなるだろうと——そこまで度胸を据えてたんです。  すべての案も出つくして発言も途絶え勝ちだった会議室で、妙な声がしたんです。「こ・ん・に・ち・わ」——そんな風に区切ってね。それがあなた、井沢貞一のカムバック第一声だったんです。西向きのガラス窓から、明るい秋の陽がいっぱいに射しこんできましたし、あのビルは大手町かいわいでも一番新らしい、近代的なビルでしょ。幽霊ってのがそんな中に登場した時、既成概念にある陰湿さとはまったくうらはらな、カラッと乾いた、コカコーラの自動販売機みたいに当り前な感じしかしませんでした。  細長いスチール製の会議用テーブルの上座に当る、大きな窓を背にした瀬戸さんの傍に、井沢貞一があのお人形のような品のいい顔いっぱいに、恐縮した表情を浮べて立っていました。何かゆらゆらと揺れていましたっけ。 「このたびは、どうも御迷惑をお掛けしてしまいまして」——そう言って、深々と頭を下げるんですよ。会議に出てたカメラマンの後藤って奴が、「ああァ、イザやん」て間の抜けた声を出したきりで、あとの者はキョトンとしてたんです。幽霊って実感がなくって、ただ井沢貞一が、いつどこからその部屋へ入ってきたか判らなかったからです。  あなたね、その時瀬戸って課長がどう言ったか判りますか。これは週刊誌にも書かれなかったことです。 「何だきみ。死んだんだろう」——笑っちゃいけませんよ、本当なんだから。瀬戸さんは、こんな苦労をさせている元凶の井沢貞一を、思わずそう叱《しか》りつけたんです。その現場で、それはちっとも不自然じゃなかったし、おかしくもなかったんです。 「申しわけありません」井沢はそう言うと、僕らの方へ向き直って、「皆さんにもお詫《わ》び申しあげます」と丁寧にまた頭をさげました。義理堅いといったら、あのぐらい律気な男もいませんからね。  広報課に白川って係長がいるんです。これがまた上司の反応を映す鏡みたいな奴で、「そりゃいいけどね、きみ。いったいどうしたんだい」 「何しろ急だったもんですから」  半畳を入れずに聞いて下さいよ。この通りなんだから。 「十一月がどんな月か知らんはずはないだろうに。なぜそんな急に死んで——」  白川って係長は、そこまで言ってから、ウッとつまっちまった。みんながそれを幽霊だって気づいたのは、その時がはじめてでした。白川係長は、井沢貞一を上から下、ジロジロと眺《なが》めまわしたあげく「どうしたの、足は」って、今度は猫撫《ねこな》で声で聞きました。  照れちゃいましてね、幽霊が。どうもお恥かしい、かなんか、もごもご言ってるんですよ。 「きみは井沢君だよな」  瀬戸さんが念を押しました。 「は、井沢です」 「どうして」 「どうしてって——」  また笑う。嘘《うそ》だと思ってるんでしょう、いやだなあ。——ウチのカメラマンの後藤って奴はね、ユーモリストってのかな。駄洒落《だじやれ》の大家で、不真面目な話だったらとびついてくるタイプなんです。ひょっとすると、あの時一番まともだったのは彼じゃないかな。 「イザやん。ひょっとするとコレモンじゃねえのか」  後藤はそう言って両手を胸の前でたらしました。その言い方が、いかにもからかってるって風で、ニヤニヤ笑いながらだもんですから、井沢も釣りこまれたんでしょうね。 「実はそうなんですよ。弱っちゃったな」  って——。笑いましたね、みんな。あんな妙なおかしさってのはなかった。みんな一斉に立ちあがると、井沢をとりまいて見物しました。——ご存知でしょ。白地に青の細かい柄が入ったパジャマ姿の井沢を。ズボンの膝の少し上あたりから、モヤモヤッとしはじめ、下へゆくに従って細くなり、どこで消えてるのかはっきりしない状態で、スウッと消えてしまっている両足。  瀬戸さんが訊ねました。 「西洋のは足があるそうだね」  そうすると、井沢はまるで安物の化繊の服を褒められた時のような具合で、 「これは和風ですから」  って——。あとはご承知の通りですよ。幽霊ってのは、死んだ時の服装でしか出てこれないんだそうです。井沢は自宅でいつものように睡り、就寝中死んじまったんです。だからパジャマ姿で。——いろんなことをやって見せてくれました。壁を通り抜けたり、スチールデスクに腕を突っこんだり。むろん物は紙一枚持てません。空気だけはどうにか震動させられるんで、声は聞えるんですね。  ひとっきり、そんな他愛もないことが続いたあと、井沢貞一は瀬戸課長を相手に交渉をはじめました。  奴さん、東日生命の仕事をするようになってから、東日の養老保険に加入してたんです。百万円で災害特約がついてたそうです。奨めたのは瀬戸さんで、加入の時の扱いも瀬戸さんの名だったそうでした。——この化けて出た前日、東日生命から井沢の遺族——奥さんと三つになる男の子ですがね。そこへ二百万円の支払通知が行ったらしいんですよ。満期以前の死亡には百万プラスもう百万円の二百万が出るんです。交通事故と法定伝染病に依る死亡なら、満期保険金の三倍、つまり井沢の場合は三百万もらえるんです。  家を建てた借金が残ってたんですね。二百万じゃどうにもならなくって、是が非でも三百万欲しかったんですよ。しかも、井沢が寝ていてそのまんま死んじまったのは、交通事故が原因だったんです。周囲に心配させまいとして黙っているうち、急に死んじゃったんですね。——それは死ぬ二日前の夕方のことで、近くの中華そば屋の出前持ちの単車に跳ねられ、いいことに、それがちょうど交番の前だったんで、立番中の警官がメモしてたんです。大したことないと思って帰ってきちゃったんでしょうが、事故ってこわいですよね。  で、調べればはっきりするから、三百万にしてもらえないかって言うんです。律気で、それだけに小心な男ですから、ずいぶん思いつめた挙句なんでしょうね。真剣そのものでしたよ。  瀬戸さんは話を聞いて、それが事実で証明できるなら、当然奥さんは三百万もらう資格があるって返事をしました。でも白川って係長がよけいなことを言い出すんです。  言葉は飾ってましたが、要するに一度決定したものを引っくり返すのは具合が悪いぞ、って警告です。保険会社の社員として、白川のような奴には、保険金の支払いは常に少いほうが正しいんでしょうね。ゴリ押しして睨まれちゃ損——そんなことなんでしょ、瀬戸さんも考えこんだ様子でした。  正直言って、僕はそんなこと関係ありませんでした。CMをどうするかってことで頭がいっぱいなんです。会議を中断させられて、多少いらついていたくらいですからね。  ——ピカリ、ひらめいたんですよ。タレントはいるじゃないか、そこに。死んだ本人が出てきて、保険というものはいかに有益で、死後も安心していられるかを説く。——きのうまでの禿頭が、ふさふさした黒髪で発毛促進剤のCMに登場するのとおんなじです。しかもその黒髪は、引っ張れば痛いし、抜けば根に肉がついてくる——つまり本物ですよ。これだ——そう思いましたね。  僕は井沢が瀬戸さんを拝むようにして頼みこんでいるのを横眼に見ながら、そっと席を外して、会議室の隅でカメラマンの後藤にこのアイデアを相談しました。ところが、手を打って喜ぶと思ったのに、後藤って奴は渋い顔で考えてるんです。——こんな瞬間が我々の仕事の一番嫌な時です。絶対行けると思ったアイデアが意外な反論にあう。反対されると、アイデアが反対されたんじゃなくて、自分って人間が否定されちまったように感じられるもんです。 「無理だろうな」後藤がそう言うので、僕はムカッとしました。わけを訊ねると、恐らく写真には撮れまいということです。さすがに専門家の言葉で、僕は完全にその点を見落していました。 「あれだけはっきり見えてるんだ。写らないはずがないじゃないか」——そう抗らっては見たものの、その実、自信はありませんでした。後藤もそんな僕の言い方が勘にさわったらしく、「だから素人は困る」って。  短かいやりとりでしたが、かなり声が荒くなってたんでしょうね。瀬戸さんが「そこで何をやってるんだ」と叱るように言ったんです。尻うまに乗って白川係長まで、「少し静かにしてくれんかね。井沢君のお蔭で課長は今困ったことになっておられるんだから」って僕らを睨みつけるんですよ。  こん畜生と思いましてね。弱い者には徹底的に強く出る白川って奴に好感持ってなかったもんだから、つい「その件で相談してるところですよ」と言っちまった。言ってから、わざわざ幽霊になってまで頼みにきてる井沢が、急に気の毒に思えてきたんです。小声で後藤に「ぐずぐず言い合っても始まらない。ためして見よう」と言うと、「じゃあポラロイド・カメラを持ってこさせる」と返事して後藤は会社へ電話をかけはじめました。  席へ戻った僕は、もし三百万にしなけりゃどうなるか、白川に向って遠まわしに脅かしたんです。——思いあぐねて出てきた井沢貞一が、目的を果せなかったからってこのまま引っこむとは思えない。あんた方がうんと言わなきゃ、第三者に頼むしかなくなるじゃないか。この不思議な姿で弁護士のところへなど飛びこまれたら、それこそ立場がなくなってしまうと思う。弁護士だって名を知られたほうがいい商売なんだから、きっとセンセーショナルなやり方をするに違いない、ってね。  そう思うでしょ。もしあの時二人がうんと言わなかったら、東日生命という一流会社が、おとなしい幽霊のためにキリキリ舞いをさせられていたと思いますよ。  瀬戸さんも白川も、僕がそういうと蒼くなりました。どうしたらいいだろうって僕に相談する始末です。だから教えてやりました。——白川のいう社内問題は、井沢貞一を死んでからもCMに出すという名目でかたづけられないだろうか。是非にと出演を依頼したことにして、再調査の便宜はその代償としてとりはからう。その上で井沢の申したて通りなら三百万払ってやれるじゃないか——。  我ながらうまく行きました。そうでもなかったら、あの二人が死んだ人間をCMに使うなんて、とても踏み切れなかったでしょうからね。  そうこうしてる内に、ウチの制作部の女の子がカメラを持ってやってきましてね。会議室へはいって後藤にカメラを手渡したとたん幽霊に気がついて、キャーって叫ぶと引っくり返っちゃったんです。ゾーッとしましたね、あの時は。いえ、幽霊にじゃなく、そんな反応をする人間にですよ。——考えて見りゃ、我々は井沢が幽霊として出現したいきさつをはじめから見てたわけで、だからこわくもなんともなかった。かえっておかしいくらいでね。ところが、その女の子は見慣れた人間たちのうしろに黙って揺れてる井沢を発見したんです。陽もちょうどかげっていて、既成の観念にある幽霊ってものに、条件もやや近かったんでしょう。キャー、バタンですよ。  みんな唖然《あぜん》としてる中で、突然後藤が笑い出しました。あいつは頭のいい奴でね。何でおかしいのか判らなかったんですが、その笑い声に無理してるもののあるのを感じたとたん、こっちにもピンときました。僕も営業マンじゃありませんが、商売ってのはおそろしいもんですね。損得が第二の本能みたいになってるんです。僕も笑い出し、夢中になってギャグを並べたてて何とかその場を胡麻化《ごまか》しちゃった。——だって、そのキャー、バタンでせっかく見つけたCMタレントがパアになっちゃ、なんにもならないでしょう。馬鹿笑いしたり、冗談を言ったり、女の子を介抱したりする間、私は冷や汗の掻きっ放しでしたよ。後藤は後藤で、騒々しく撮影の仕度をはじめ、瀬戸さんと白川の注意を気絶した女の子から逸らさせるのに懸命でした。——女の子が正気に戻り、会議室の外に連れ出させた時、後藤は祈るようにポラロイド・カメラのフィルムを引き抜いてましたっけ。「撮れたッ」ととびあがるとそれを僕に渡しました。瀬戸さんはじめ、みんな僕をとり囲んで写真を覗きこんだんですが、ふと眼をあげると、当の井沢が肩を並べて立ってる瀬戸さんと白川の間にわりこんで、ふたりの体に半分ずつ重なっちゃってるんです。——それを見て、テレビの初期にプロレスを観て昂奮のあまり死んじまった例があるのを思い出しました。さっきの気絶騒ぎといい、この奇妙な光景といい、こいつはそうとうパブリシティをしてかからなきゃ駄目だぞ——そう思いました。  大ざっぱな用語ですが、パブリシティって我々が言う時は、広告料を媒体に払わず、広告主が誰だか判らないような形で行なう宣伝活動のことで、読み物やニュースの中へ埋めこんじゃうやり方なんです。つまり、幽霊現わるとかなんとか、新聞などに報道させたり、何日の何テレビで幽霊のCMをやるそうだと芸能欄や番組案内に書かせたり——その中にうまく幽霊の性質を叩きこんで行けば、視聴者に予備知識を持たせることになり、不測の事故も防げるというもんです。  あとになって、その時のやり方がうまかったって広告専門の雑誌で褒められたりしましたが、なに、その時は無事故で井沢のCMを成功させたいだけでした。CM効果をより高からしめるために、とかなんとか批評家連中は言ってくれましたけど、そんなことはぜんぜん考えなかったんです。  写真にうつることが判ったんでひと安心したんですが、そのあとがまた大変。——消えてくれって頼んだら、駄目だとくるんです。一度消えたら、次はいつ出てこれるのか判らないんだそうで、これには弱っちゃった。だって、いつまでも東日生命に置いとくわけには行かないし、連れて歩いたら大騒ぎになっちゃう。もし関係ない通行人にでも気絶されたら、笑って胡麻化すなどできやしません。  どうしたかって——段ボールの箱へ入れて運んだんです。井沢はその中で、我々が箱を運ぶのと同じ速度で動くんです。エレベーターで降りる時なんか、調子が合わなくってえらい苦労をさせられましたよ。  十一月の最初の木曜日。『愛の劇場』の前CMが終るや否や、中央テレビの電話が鳴り出してやみませんでした。幸い事故はありませんでしたが、とにかく凄い反響なんです。あれ、ごらんになったでしょう。大部分は確かに本物なのかって問い合わせですが、インチキだという抗議もだいぶありました。翌日、B生命なんかは生命保険協会へ誇大広告を取り締るよう、正式に申し入れたくらいですからね。  新聞社がくる、テレビのニュース班がくる、宗教団体の代表がくる。——いやもう物凄い騒ぎで、僕はそれ以来当分の間、井沢貞一にかかりっきりでした。第二週目の準備に入って、中央テレビのスタジオヘ行かなきゃならない頃には、井沢貞一は完全にスターになっていました。——妙なもので、科学者だけはこの最初の騒ぎに加わってきませんでしたね。しかもあとになってK大の野島教授たちを連れてきたんだって、アメリカン・サイエンス社の特派員なんですからね。突然現われた未知のもの、超自然くさいものに対しては、様子がはっきりするまで触れたがらないもんなんでしょうかね。学者ってのは。  十一月の三回目の木曜日。僕も井沢貞一も中央テレビにいました。この頃には、生前井沢が所属していた木下芸能プロの人間で、原田という専門の付き人《びと》が、井沢の身のまわりを引き受けるようになっていたので、僕もだいぶ楽になっていました。  ただ、ウチの会社は死後の井沢について権益みたいなものを持っていましたし、木下芸能は生前の契約を持っていたもんですから、何かこう、一触即発のもめそうな空気をはらんでいたんです。ただ、木下のほうは井沢が死んだ時、ひどく冷たく扱いましたからね。あまり強いことは言えない立場だったんです。  その日ですよ。井沢が幽霊としての存在を公式に認められたのは。——警視庁の何とかいう名の警視でしたっけ。局へやってきましてね。要望書というのを置いてったんです。  井沢がむやみに道路を歩いていて——漂っていてって言うんですかね。ま、とにかくそうやって体が物を通り抜けられる性質を乱用すると、交通が混乱する可能性がある——つまり、横断中の井沢を通りすぎた運転者は、轢《ひ》いたと考え、急ブレーキを踏んだり、ハンドルを切ったりしてしまう。だからそのようなことのないように。また、他人のプライバシーを侵す行為は厳につつしむように——。  いろんな注意が書いてありました。笑っちゃったのは、こういう例外に対しても当局は良識をもって判断し、法に触れると思われた場合には、厳正に然るべく処罰する方針である、って終りの部分です。いったいどう処罰するつもりだったんですかね。  その警視が帰ったあと、僕の名を局のスピーカーが呼んでいました。手ぢかの電話を取ると、それはPレーヨンの宣伝部長でした。局の近くの喫茶店にいるから、内緒で会って欲しいって言うんです。僕はすぐ行きました。何しろ年間十数億円の広告宣伝費を使っている大スポンサーですからね。  Pレーヨンは幽霊が、死んだ時の着衣でしか現われない、という所に目をつけたんです。それならいつもいいものを着てなきゃ損だろう、てんです。主力商品群の高級化を進めていたレーヨンは、井沢貞一を中心とした大キャンペーンを企画したんです。たぶん常務会あたりからの発案だったんでしょう。部長じきじきに打診してきたんです。  ウチの社はPレーヨンと取り引きがありませんでしたので、実は一も二もなかったんですが、僕は井沢を動かすことはCM制作に関係するから、Pレーヨンが提供している四つのテレビ番組の内、少くとも半分については、東京のキー局を扱わせろと言いました。むろん僕が言うんじゃなく、そうしなけりゃウチの社が井沢を動かさないだろうって——結局そうなりましたがね。  木下芸能とウチの社が、井沢を中心にしてモメ出したのは、このあたりでした。もっとも井沢自身は十一月の『愛の劇場』四本に出演したら、すぐにでも消えちまうつもりだったらしいんです。もうご承知のように、幽霊は一度消えたら、いつまた出てこれるか判らないもんだそうですからね。  そんなこんなで、井沢にギャラが支払われました。十一月分は手取りで十万ほどだったでしょうか。でも木下芸能とモメてる内に、井沢のギャラはどんどん釣りあがり、とうとう一回十万になっちまったんです。CMタレントとしちゃ破格ですよ。もっとも、それだけの値打ちはありましたがね。  何しろ『愛の劇場』の視聴率は四十パーセントを下ることがなくなったんです。六十なんてこともありましたし、恐らく占拠率じゃ百に近かったんじゃありませんかね。CMが本編を食う——アドマンの夢ですよ。僕たちも井沢に夢中になりました。東日生命との話し合いがついて、レーヨンの仕事もするようになってから、自分はスターだという自覚を持ったんでしょうね。貫禄が備わってきたから不思議です。  消えちまうわけにはいかないから、我々同様ひまな時でもどこかにいなきゃならない。ところが、幽霊ってのは、ぼんやりしてると動いちゃうんですよ。日蔭が動くように西のほうへ少しずつズレちゃうんです。同じところにじっとしてるってことが、相当な努力なんでしょう。しょっちゅう、疲れた疲れたって言ってました。場所を移動する時は、我々同様車に乗るんです。人目につくのと、やはり警察の言うように、うっかり人や車を通り抜けて騒ぎを起こしたくなかったんでしょうね。でも、慣れるまで大変でした。車が急に停まると、気づかずにそのまま車の外ヘハミ出して行ったり、左折すると奴さんだけまっすぐ行っちゃったり、妙なことばかりでした。車に乗るんじゃなくて、車と一緒に動いて行くんですからね。  週刊誌の表紙になり、ニュース・ショウに招かれ、世の中はオバケ・ブームになって行きました。テレビの魔女ものが大当りし、子供マンガの主人公にオバケの平太郎なんてのができたのも、この頃でしたね。  ——ええ、夜は自宅へ帰ったんです。ほかに行くところはないでしょう。奥さんは幾江さん、子供は浩一。可愛い子でした。  例の三百万の件ですが、井沢は税金の計算を忘れてたようです。ガバッと取られました。だから結局足りなかったんです。ギャラはあがる、面白いように仕事は当る——井沢は稼ぎまくりましたよ。ウチは広告代理店で、芸能プロダクションじゃないですから、そうなると彼の身柄はだんだん木下芸能へ移り、ウチは彼を使う優先権だけを持つようになりました。  だいぶ話題になりましたね、彼のギャラや税金のことは。何しろ一度死んだんだから、家その他には相続税が掛ってくる。ところが放送局や出版社は彼あてに伝票を切る——むろん源泉の十パーセントを引いてです。木下芸能じゃそれから手数料を引く。残ったのは奥さんのところへ全部入るけど、この分については死んだ夫のものだから相続税をかけるのか、または犬や馬の場合のように、持主として課税するのか。そこからはじまって、夫は妻の所有物かどうか——。やかましい限りでした。  一人井沢はって言うと、だんだん世の中に居据わってきて、夜なんかスポンサーと一緒に銀座へ飲みに行ったりする——飲めやしません。寝たり食ったりの必要はない体ですからね。つきあいですよ。まわりの連中が面白がって連れ歩くんです。それがまたニュースになる。井沢も面白かったでしょう、あの時分は。  灘恵子とのゴシップですか。あんなもの、デタラメですよ。灘は『愛の劇場』の準レギュラーみたいな女優ですから、仕事の上でよく会いましたし、仲もよかったのはたしかです。でも恋愛なんて馬鹿げてますよ。飲み食う必要のない奴が恋なんかしますか。——でも、あれはひどかったな。幽霊タレントのプラトニック・ラブ——ひょっとしたらと思いますよね。一斉に書きたてましたから。  間が悪いんですよ。奥さんのことですけど、ちょうど灘恵子の騒ぎにぶつかったんです。幾江さんてのは、もとファッション・モデルでして、なかなかの美人なんです。それが浮気——と言えるかどうか、とにかく再婚の相手ができたんです。法律的には問題はないでしょう、夫の死後一年もたってるんだから。  でも井沢がいたんだからねえ、現実に。しかもドカドカとギャラを運んでくる。奴さんにしちゃ怒らざるを得ませんよ。もとはと言えば家族のために出てきたんですから。ただしその頃には少し意味が違ってました。井沢はスターになって、面白くて消えられなかったんです。——ひょっとすると、井沢が幽霊だという現実を、一番深く認識してたのは幾江さんだったかも知れませんね。女盛りのあの齢で、毎晩帰ってくる亭主に触れることもできない。こりゃあ深刻ですよ。死んでるんだから。  夫に死なれ、子供を抱えて困ってる最中だったら、きっとそう悪くは思わなかったんでしょうが、生活の不安は解消する、夫の名声はあがるって中で、幾江さんは生身の人間として、井沢の存在が重荷になってきたんじゃありませんかね。一度死んじまった、幻影みたいな相手に人生を束縛される——それが不満だったんじゃありませんか。  幾江さんの相手は税理士ってんですか、会計士ってんですか、相当大きなオフィスを持った立派な男です。奇妙な井沢って存在の税務上の問題を、生きてる奥さんの側から親身になって考えてやってる内に、そんな関係が育っていったんでしょう。  でも井沢にして見りゃ、これは明らかな浮気です。腹を立てたのはしごく当り前でしょう。それにもうひとつ裏側の理由があったんですよ——存在理由です。井沢貞一の。幾江さんが再婚し、浩一君も幸福になれば、幽霊として存在していく理由がありません。これは僕個人の考えですが、人間は仮りに存在理由を失っちまっても、いつかは死ぬんだということで生きて行けるんだと思います。でも井沢はそうじゃない。死ねないんですから。  だが彼としては今の生活が面白くて仕方ない。消えたくないんです。だからモメました。おとなしい井沢にしては、珍らしくしつっこくモメました。消えるってことが、もし死ぬってことを意味するとしたら、奴さん命がけだったわけです。  あまり井沢が意固地になってやったもんですから、相手の男性もその気になって張り合っちゃったんです。法律じゃ相手のほうが歩がいいんです。どうしても幾江さんを翻心させられないと知ると、井沢は浩一君を引き取ると言い出しました。この辺になると、井沢はどうも醜態を演じたと言えそうです。それほどまでしても消えたくなかったんですね。  この騒ぎを外側から見ると、灘恵子のことで夫婦別れ、と見えてしまいます。週刊誌が書きたて、中には灘恵子の他にもう一人いる、なんて書く酷い雑誌も出てきます。——ところが、ギリギリ決着の所へ行くと、浩一君はパパと一緒がいいって。そりゃパパのが面白いでしょう。人気スターでテレビにも毎晩出るし、何よりもオバケの平太郎が影響してたようです。  法律に訴えてでも、浩一君の処分なんかについて、もっと賢明なやり方があったはずですが、モメると万事こんがらがってしまって、当分の間幽霊の井沢が子供の面倒を見るって、妙な結果になっちゃったんです。  井沢の付き人の原田ってのに恋人があったんです。歌手志望の娘でして、モノにならなくて木下芸能の走り使いみたいなことをしてきましたが、この娘が浩一君の付き添い役になりましてね。子供はパパと一緒にテレビ・スタジオなどで嬉しそうに跳ねまわってましたよ。——この娘が大変なドライ娘で、浩一君のママの座を狙ったんです。子供は好きだったようで、浩一君もお姉ちゃん、お姉ちゃんといってなついてましたから。  今度は原田と井沢が変な具合になっちゃったんです。するとその娘、原田の仕事までとりあげようとして——むろん井沢はこの場合被害者です。でも、自分が消えないで済むために、ひょっとしたら少しは気持を動かしたのかも知れませんね。その娘がえらく強気でいましたから。  落ち目ってのは、こわいですよ。特にマスコミの場合はね。こんなゴタゴタの中で、原田がまた、よしゃいいのに方々で言い触らしたんです。あいつの動く半径と言ったら、どうせマスコミの中でしょう。たちまちゴシップ記事です。  世間の何も知らない人たちには、これがのべつ幕なしの浮気沙汰に見えるんです。またか、てな調子で、井沢の人気の寿命を縮める大きな原因になったんです。  巨大な予算を投入しているPレーヨンは、こんな要因を厳しく計算してます。キャンペーンの方針修正とかなんとか言って、体よく井沢はオロされちまいました。すぐにそのPレーヨンの理由を伝え聞いて、本家本もとの東日生命も、CMを切り換える始末です。  あれは去年の七月一日です。僕が出社すると、中央テレビのディレクターをやっている岡本から電話が掛ってきて、何でもいいからすぐきてくれって言うんです。ひどく興奮していました。  僕らが五リハって呼んでいる五階の奥のリハーサル室へ行って見ると、そこに前の月に自殺した歌手の——ええ、ヘレン愛崎です。彼女がいるんですよ。ゆうべ岡本の所へ出てきて、使ってくれっていったらしいんです。ヘレンて言えば、セミ・ヌードで売り出したグラマーでしょ。歌えて踊れて芝居ができるんです。しかも死んだ時着てたのは、例のベビー・ドールとか言う上だけのうす物です。バンとしたおっぱいがちらちらしてて、すんなりした体つきがまる見えなんです。いやはや、何とも悩ましい幽霊が出たもんです。  話を聞いて唖然としました。同じタイプの今井勝子がひと足さきに出てるんで、なんとも一流スターの座につけない。そこで、はじめから幽タレになるつもりで自殺したんだそうです。  ——結局マスコミは非情な浮気者です。幽タレとしての人気は、グラマーなヘレン愛崎に移り、彼女のゴースト・ブルースが八十万枚も売れるということになっちゃったんです。井沢のほうは、蔭の大勢力Pレーヨンがスカンを食わせたってんで、マスコミからすっかり冷たくされちゃって、浩一君の養育費を稼ぐために、ドサヘ出なきゃならなくなったんですよ。都内のキャバレーやクラブのショーはまだいいとこで、ひどい時は高崎や伊勢崎辺まで稼ぎに行ったようでした。こうなると僕らには何の力もありませんや。木下芸能だって、ギャラの馬鹿高い井沢を放り出さないのが不思議なくらいでね。  この二月の十七日です。井沢の代理だと言って、夜遅く例の娘から僕のアパートへ電話がかかりました。——浩一君が車に跳ねられたんです。僕は驚いて社の車を引っぱり出し、大宮へ駆けつけました。警察の近くの大きな病院についた時、病室にいたのはあの娘だけで、浩一君の小さな顔には、眼にしみるような白さの布が掛けられていたんです。  井沢はどうしたって聞くと、すっかり取り乱している娘は、泣き喚きながら、浩一君が息をひき取ったとたんに消えちゃったって答えました。そこへ幾江さんたちもとんできて——見てるのが辛いくらいの嘆き方です。浩一君に詫びてるんですね、ママが悪かったって。  ——事故の様子はこうです。大宮のキャバレーで仕事を終えた井沢が、店の向う側に停めてある車に乗ろうと道を横切ったんです。いえ、歩道も車道もありません。狭い道ですからね。その時、パパって、浩一君がうしろからお姉ちゃんの手を離れてとんでったのです。楽屋で寝てたそうなんですよ、パパの出番の間ずっと。  その時、土地のあんちゃんの運転するトラックが、猛烈な勢いで突っこんできたんです。そのアンちゃんは、別に悪意があってしたんじゃないんですが、有名な幽タレの井沢の体をトラックで通り抜けて見ようとしたらしいんです。そこへ子供がとび出した。アアもオオもないですよ。トラックが通り過ぎたあと呆然としている井沢の傍に浩一君が倒れていました。血がどんどん噴き出してたそうです。  僕は何かひどく腹が立って仕方ありませんでした。間違ってるでしょ、何かが。幽タレなんてのが出てくるのもおかしいんだし、それを神秘とも何とも思わないで笑って見てる奴らもおかしいんだ。そうでしょう。  病院にいる気がしなくて、外へとび出しました。歩いて歩いて、歩き疲れたいような気分だったんです。——気がつくと、事故現場のキャバレーの前に立ってました。冷たい風がひゅうひゅうと鳴ってて、しいんとした夜中の通りに、消し忘れたのか、キャバレーの毒々しいネオンだけが光って、その電気のスパークする音が、バチバチ、バチバチってやけに虚しい音を繰り返してるんです。  風が強まると、白いケント紙を貼り合わせた立看板がガタガタ揺れてました。よく見ると、それは井沢のでした。——当地初出演。裸女通り抜けショー。井沢貞一。  あいつ、そんなことしてたんです。ヌードダンサーの体を出たり入ったり。パジャマ姿だから、その気になれば相当|卑猥《ひわい》なことだってやれるはずです。そして、それをやってたんです。土地のあんちゃんが車で通り抜けようなんて気を起したわけですよ。  ——翌る日の新聞に、浩一君の事故がのりました。ただの交通事故としてで、幽霊タレント井沢貞一氏の長男、とだけ説明してありました。マスコミって何なんでしょう。人間は消耗品なんですね。幽霊でさえも食い潰しちまうんです。まして僕みたいな男なんか、踊れば踊るほど寿命が縮まるんです。若いディレクターやデザイナーがどんどん追いついてきて、追い払われちゃうんです——とボヤいて見ても、僕自身、むかしそうしたんだから仕方ないけど。一生懸命自分の気に入ったことを追求できる世界が欲しいですね。  よく思い出しますよ。あの井沢が寒い風の中を、大宮のキャバレーの前からどこかへ戻って行くうしろ姿を——。そんなとこ、見たわけじゃないけど、彼を思い出すと、きまってその情景が眼に浮ぶんです。そして、その井沢は必ず浩一君の手を引いていて、浩一君は駄々をこねるみたいに泣いているんです。——実際もきっとそうだったんじゃないでしょうかねえ。  酒  ま、とにかく飲めよ。叱言《こごと》はいうべし、酒は買うべしさ。……冷奴《ひややつこ》は早えとこ箸《はし》をつけねえと。ぬるい豆腐なんざ、男の食う物じゃねえや。お前、この頃飲むほうもだいぶ腕をあげたっていうじゃねえか。お袋がそう言ってたぜ。飲む打つの腕ばかりあがっちまって、これで買うが揃《そろ》やあ言う事無しだとさ。……でも、買うほうはまだなんだろうが……その意気その意気。飲みっぷりなんざ、おめえの親父《おやじ》そっくりだ。しぐさまで似るもんなんだなあ、親子ってのは。  でもな、叱言の続きじゃねえけど、あんまりお袋に心配かけなさんなよ。親ひとり子ひとりじゃねえか。……飲むのは良いや。幸い酒のタチも良いほうだし、これがもし酒乱とでもいうんならとにかく、男なんだから酒くれえ構やしねえさ。……そりゃお袋は女だから出来る事ならお前の酒もついでに封じちまいたいだろうさ。だが叔父さんは、そうまで堅え事あ言わねえつもりだ。バクチさえやめりゃあ、お前に言う事あ無えんだよ。バ・ク・チ……判るかい。俺の言ってる事が。  世間にはな。こんな、今お前が説教されてるのとおんなじ事を言われてるドラ息子は、それこそ何だ、掃いて棄てる程居るよ。だから、お前くれえなバクチ好きなんざ、世間並みな事を言やあ、そう角張《かどば》った意見をするにも当らねえかも知れねえ。だが、お前は特別なんだ。俺やお袋が心配するってのは、その、特別、って奴が引っ掛ってるからなんだよ。……ほら、徳利がカラだよ。婆さんに言って、もう二、三本つけさせて来い。……良いんだよ。俺は今お前に意見してるとこなんだぜ。お前に酒の意見をされるほど落ちぶれちゃあいねえや。良いから早く行っといで。  おう、もう来たのか。やけに婆さん気が効いてるじゃねえか。何か言ってたか……。馬鹿野郎。気になんぞしてねえや。あんな婆さんのいう事いちいち聞いてた日にゃあ、する事が無くって退屈しちまわあ。……こいつ、まだ屁理屈こねる気でやがる。叔父さんとあの婆さんは夫婦だよ。……判ってたら妙な理屈をこねるねえ、……畜生、やけに燗《かん》をつけやがって、熱いったらありやしねえや。  何で特別なんだと……お前今年幾つになったい。……そうか、もう立派な一人前だな。じゃあ、なぜお前がバクチに凝るのを心配するか、その訳を聞かせてやろうじゃねえか。  お前の親父ってのが、此の東京へやって来たのには、大変なわけがあったんだ。……そうさ、根っからの江戸ッ子なんてもんじゃねえんだよ。遠くから、はるばる仕事でやって来たんだ。仕事のことは後で言うよ。こんな話を一遍に出来るかい。順番に話すから、黙って聞いてろい。  とにかく、お前の親父が東京へ来たての頃にゃあ、そりゃ堅えもんだった。仕事熱心でな。丁度あれは全部で十人だったよ。一緒に来たのは。……その中でも、一番見込みがあるのはお前の親父だって言われたもんさ。……当りめえよ。みんなボンクラじゃあるもんか。若手のバリバリの連中だあね。……その親父が縮尻《しくじ》ったのが、バクチさ。考えてみりゃあ、馬鹿なはなしだ。……あれから、もう三十年近くもたっちまった……。あいつがバクチさえ覚えなけりゃあ、今頃はお前も向うで、もっと楽に暮してる筈なんだからなあ。……向うって、お前の親父の生まれた所さ。つまりお前の里だ。……こぼすなよ。勿体《もつたい》ない。もう酔ったのか……。  向うにゃバクチなんてものは無かった。……世の中はずうっと進んでいて、……うすうすはお袋からも聞いてるんだろうが……そうか。それなら話がぐっと早くならあ。で、最初そいつを聞いた時、お前、どう思ったい……驚いたか、って聞いてるんだよ。  そうさ。俺達……俺もとうとう此処の住人になり切っちまったがね……俺達の生まれたところは、此処よりずっと古くからあって、だから世の中ももっと奇麗で、住んでる人間の気持だって、うんとすがすがしいもんだったんだ。……叔父さんはもう忘れかけているがね、あの頃の気分を……。泥棒もいねえし、人殺しなんかもありっこねえ世の中なんだ。嘘てえものが無かったんだな。……大むかしはあったさ。此処とおんなじようなもんだったんだろうよ。でも、長いとしつきの間に、人間はだんだん利口になって、嘘だの悪い事だのって奴あ、人の心から消えてなくなっちまったんだな。  で、いろんな学問が実って、向うの世の中じゃ、星と星の間を往き来する機械だのが揃ったもんだから、ほうぼうの、人間が住んでいる星を調べにかかったのさ。此処へやって来た十人てのも、その為に来た若え者達だったんだ。  もう沢山かい。案外飲めねえんだな、お前は……。叔父さんはでかい物でやらしてもらうぜ。  この地球って星へ着いて、その十人は思い思いの土地へ散らばって行ったよ。ふたりずつ組になってな。俺はお前の親父と組んだんだ。そして東京へ潜り込んだというわけさ。  ふたありとも。最初は真面目に仕事をしたよ。不慣れで随分冷や汗もかいたもんだし、夜っぴて此処の人間の事で議論した事もあった。……勿論《もちろん》、始めの内は早く仕事を済ませてけえりたかったし、此処の人間が馬鹿臭くって仕様がなかった。ところがだ……ところがお前の親父ってのは、そこら中ほじくって調べて歩いてる内に、此処の世の中には、バクチってものがあるのを知ったんだ。……最初は仕事だからってんで、気が進まない風で賭場《とば》へ出入してたんだが、その内奴さん、本気で勝負に身を入れ始めやがった……。勿論仕事なんぞ、放りっぱなしになっちまって、バクチにうつつを抜かしたんだよ……。  ……俺も考えたさ。俺達は此処の人間とは出来が違うんだ。だのに、なぜ下らねえバクチなんてものにとりつかれて、大切な仕事をおろそかにしちまうのか、ってな。……今じゃあその訳も判ってる。向う生まれの俺達も、所詮根は同じ出来だったんだ。ただ、先祖がずっとさきに生まれたもんで、自分達で自分達の不都合な性質を消していたんだな。……ところが、バクチってのは本能みてえなもんらしくって、お前の親父が二、三度それに手を出している内に、消されていたそいつが、また現れて来たって奴だ。……やって見りゃあ、あんな面白れえものはないらしくって、しかもそれが無理に隠されていたもんだけに、お前の親父は……つまり、誘惑に負けちまったんだ。  ……敗《ま》ければ敗けるほど熱くなるのがバクチの怖いところで、調べの費用に持って来た、ちっとばかりの金の塊りなんざ、あっと言うまに無くなって、お前の親父は、此処の人間並みに昼間稼ぎに出るようになったんだ。……俺ン処へも良く借金をしに来たっけ。  約束の帰る日が近づいても、お前の親父は、あの機械が降りる場所へ行こうとはしなかった。バクチは親の死に目に逢えねえって言うが、全くだ。とうとう奴はけえり損《そこな》っちまったのさ。  ……自分で稼いだ銭で遊んで見ると、結構此処も張り合いのある場所だったんだな。……俺も、お前の親父の気持は、よっく判るんだ。  で……結局叔父さん達は此処の人間になり切る事にきめ、好きな女も出来て世帯も持ち、いっぱし此の世の中の貧乏人並みに暮して、半分楽しみながら生きて来たんだ。  そうさ。だからお前も根っから此処の人間っていう訳じゃない。でもな、これだけは釘をさしとくが、向うへけえろうといったって、そうは行かねえんだぞ。もし行けたとしても、行った途端に罪人だ。そりゃ太鼓判を押すよ、叔父さんが。……だろう。嘘はつく、見栄は張る。酒の味も知ってりゃあ、おべっかの手も心得てる。そんな者を向うで黙って置いてくれる筈がねえよ。  ……ああ良い気持だ。少し風が出たようじゃねえか。風鈴が良い音で鳴ってるぜ。……ちょっと此処へ来てみろ。ほら、此の庭だ。……せめえ庭だが、ちゃんと土もありゃあ、草も生えてる。どうせコオロギだろうが、虫だって鳴いてるじゃねえか。鼻のつかえそうなところに塀があって、隣りの二階からマル見えなんざあ艶消《つやけ》しだが、このちっぽけな家だって、叔父さんが苦労して手に入れた、言わば城さ。……向うにはねえ事だ。誰の物って事がなくて、要る物はいつでも手にへえる。……油断してたら食う物も食えなくなるこっちの世の中のほうが、向うよりいくら張り合いがあるか……今じゃそう思ってるよ。  だからお前も油断するんじゃねえ。そう言いたいんだよ、此の俺はな。……お前にはバクチ好きの親父の血が流れている。バクチのために親父は向うの世の中からはみ出しちまったんだ。……お前には此の世の中からはみ出してもれえたくねえ。……あいつが生きてたら、きっとそう言うぜ。……好い奴だったよ、あいつは。  ……ああ、そりゃしんみりもしようじゃねえか。俺ももう年だ。時には、やけに向うが恋しくなる。来る時に好きな女をひとり、向うへ置いて来たっけ……もういい年だがね。  俺が……道連れに……飛んでもねえ。お前の親父と仲が良かった事は確かだが、だからって、道連れになって一緒に此処へ残ったかどうかは。……きっと置いて帰ったろうな。俺に何のわけもなかったら。  聞きたいか。……教えてやろう。酒だよ、酒。……さけだったら。今飲んでたろ。あの酒さ。向うには、あんなうめえものなんぞ無かったんだ。俺は此の東京に潜り込んだ次の日から、酒という奴にぶつかって、それっきり酒びたりさ。一生懸命稼ぐのも、酒の為なんだ。  見ろよ、此の空を。雲ひとつねえ、良い月夜じゃねえか。あの沢山の星ン中に、俺やお前のふる里があるんだ。バクチも酒も無え星がよ……。  婆さんや。もう二本ほどつけてくんな……。  収 穫     1  世界の情勢は緊迫していて、ひょっとすると核戦争が始まりそうな気配だが、俺などがそんなことに気を揉《も》んで見たところではじまらないことだ。起るにしろ、起らないにしろ、石を投げるのは俺達ではないのだ。  それより俺が心配しているのは、このフィルムを間違いなく絵にすることだ。せっかく東京でも一流の、この映画館の主任映写技師になれたのだから、それを棒に振るようなミスは犯したくない。  第一、俺だって映画ファンの端くれだ。今映っている超大作の西部劇が途中で切れたり唖《おし》になったりしたら、俺が一番さきに文句を言いたくなるだろう。  映写機は快調に動いている。あまり調子が良過ぎて、フィルムの廻る音を聞いていると睡くなるくらいだ。俺は助手達が真面目に仕事をしているのを横目で確かめると、誰かが持ち込んだ朝刊に眼を通しはじめた。  俺はおやと思った。鉄のカーテンの向う側からは、まったく通信が途絶えていると書いてある。そして、フランスが世界に対して沈黙してしまったというのはどういうわけだ。  フランス共産党のゼネストとクーデターが成功したのではないかと書いてあるが、もしそうだとしたら、NATOが動きださないのがおかしい。いや、フランスからは船も、航空機も全然出て来ないと言うのだ。まるでこれはナンセンスではないか。  三面をひろげると、もっと奇妙な記事が並んでいた。昨日から今日にかけて、羽田国際空港へ出入りする航空機が一機もなくなってしまったと書いてある。とにかくこの十二時間、飛びさえすれば確実に行方不明になるのだそうだ。船もだ。いや、それより奇怪なのは、この大事件を報道する新聞の奇妙な静けさだ……いったいどうしたというのだろう。  これでは、日本は眼に見えない檻《おり》に入れられたのと同じではないか。外国と連絡できるのは電波だけになってしまっている。しかも地球の半分は黙りこくっているのだ。  冗談じゃない。こんな馬鹿なことがそう長く続いてたまるものか。もうすぐ、号外でも出て、新聞社のサボタージュだった、というようなニュースが出るのだろう。  俺はふと、四角い覗《のぞ》き窓から客席を眺めた。スクリーンの左側には、青白く光る時計が十一時半を少し廻ったのを示している。客席は六分の入りだ。いつもと少しも変っていない。  覗き窓から離れた俺は、この前の戦争の直後に起った洪水騒ぎの時のことを思い出した。  軒先すれすれに水の溢れ出た東京の下町を、やっとの思いで脱け出して都心部に来てみると、道路は水を撒きたいほど乾いていて、映画館などは眼と鼻の先きの洪水騒ぎもどこ吹く風というように満員だった。俺は子供心に、水の出なかった街々の不公平な平穏さに腹をたてたものだった。  もしかするとのんきに映画を観ているこの客達も、誰かに腹立たしく思われているのかもしれない。おれは突然、どこかで何かが起っているのだ、と思った。なにか奇妙なことが……。  遠くでライフルの発射音がすると、馬のけたたましい嘶《いなな》きと鋭い罵声が続き、物をひきずる音と一緒に男の呻《うめ》き声がした。おれは劇場《こや》の中を見た。岩蔭に転がり込んだジョン・ウェインが、銃を構えてあたりを窺《うかが》っている場面だ。  俺はふいに、三時になるのが待ち遠しくなった。給料が渡される時間だ。小遣いを調節しながら使うなどという器用なことのできない俺は、もう一週間も前からオケラになっている。別に今夜使うあてがあるわけじゃないが、とにかくポケットに金があるのとないのでは、気分が違う。  欲を言えば車も欲しい。小綺麗な家も持ちたいし、高い酒も飲んでみたい。しかし、この有楽町を歩いている一人一人の人間が、それぞれ頭の上に、そんな夢で膨らんだ風船玉のようなものを浮かべて歩いているのだ。その夢を特別大きく膨らませれば、まわりの人間の風船をブチ割るか、まわりの風船に圧しつぶされて、こっちがパンと音をたててしまうかだ。  割れてしまいたくはなかった。俺はもうすぐ三十になる。あと三年しかない。そろそろ貯金でもして世帯を持つ準備でもしたほうがよさそうだ。いま恋人がいるというのではないが、そのうちきっとできるだろう。でなければ、世話好きなあの支配人が、誰かの写真を懐ろにして、「今晩話があるから一杯つきあえよ」とかなんとか言い出すにきまっている。  人生とはそういうものだ。平凡、平凡の連続で、たまに何か特別なことが起っても、それが特別なことであるとは気づかないほどなのだ。  そんなことを考えていた俺は、ふと映写主任の自分に戻った。新米の助手が、さっきからフィルムを捲き戻す手を休めていたからだ。 「おい、何をぼんやりしているんだ」  助手の奴は遠くを見詰めるように、焦点の合わない眼をしたまま、突っ立っていた。俺は立ち上って、彼の背中をどやしつけてやった。  新米は俺の顔を見て嬉《うれ》しそうに笑うとゆっくりフィルムをいじり始めたが、自分で何をやっているのか判らない様子だった。ちょうど女のことでも思い出しているように見えた。  からかってやろうと思って、機械の向う側にいるもう一人の助手を呼んだ。  返事がないので向う側にまわると、壁にぴったり背中をつけ、これも同じように何か思い出していた。  腹が立った。たるんでいる。憤《おこ》った顔で叱りつけないと、どんな失敗をやらないとも限らない。おれは助手の肩に手をかけてゆすった。  驚いたことに、彼は今まで見せたこともないような円満な笑顔で答えた。 「やっと来ましたね」 「何が来た? 夢でも見てるんじゃないのか」  もっとひどい文句を言おうとしたが、その時はじめて、何かいつもと違う空気を感じた。  スクリーンはちょうど、ジョン・ウェインが息子のラブシーンにでくわして、連れにそれを見せまいと苦心しているところだった。  いつもなら客席から笑い声が湧く場面なのに、今日に限って場内は静まり返っている。この映画を封切ってから今日で三週間になるが、こんな日は初めてだった。  俺は外の様子を見に廊下へ出た。  二階のロビーの隅にある売店の娘達も、さっき助手がしていたのと同じ表情でポカンと突っ立っていた。指定席係の娘まで……。  どいつもこいつも、いったいどうしたというのだろう。俺は階段を降りて下の様子を見て来たいと思ったが、下で支配人に逢うと厭《いや》な顔をされるかもしれないので我慢した。  ふと、ロビーに置いてあるテレビのスイッチを押した。映像が出た途端、俺は何とも形容のできない不気味さに襲われた。  いつもなら、放送局でミスでもしない限り見られない釣り道具のようなマイクが、ぶざまに画面の中央に垂れ下り、四人の男性コーラスが歌も唱わずに遠くをみつめているのだ。  俺は何となしに慌てて、テレビのスイッチを切った。放送局の連中も、遠くを見つめているのだろうか。そんな馬鹿なことがあるはずはなかった。  今のテレビはきっと何かの芝居の途中だったのだ。偶然の一致だ。俺が見たのはこの劇場にいる二人の売り子と、三人の案内係、それに映写室の二人の助手だけではないか。  いや、それだけではない。笑わない客席が扉の向う側にある。そこには少なくとも六百人はいる。ひょっとすると換気装置の故障で、睡くなるようなガスが劇場の中に充満したのかもしれない。あり得ないことではない。そうだ、外の空気と入れ替えなければ……。  俺はそう思って非常階段の扉の閂《かんぬき》を引き出そうと手を掛けた。その時俺の背中で女の化粧品の匂いがして、柔らかい手が扉をあける俺を手伝った。振り返ると、今まで指定席のドアの前にいた案内係の娘だった。 「どうしたんだ、ぼんやりして」  俺は、ほっとして彼女にそう言ったが、彼女はさっきの夢見るような顔とは打って変って、恐ろしく無表情になっていた。 「早く行きましょう」  娘達はまるで俺など眼中にないように、仲間を誘うと隣りのビルとの狭い谷間に曲りくねっている鉄の非常階段をガンガン鳴らしながら降りて行った。映写室のドアをあけて、助手達も用事ありげにやってくる。俺は本気で腹をたてた。何かは知らないが、俺だけ仲間はずれにされたことは確かだ。 「おい、お前達はどこへ行くつもりか知らないが、俺に断りなしに職場を離れるわけにはいかないんだぞ」  俺は精一杯|凄《すご》んでやった。非常階段のドアの前で、二人は呆気《あつけ》に取られたように俺の顔を見詰め、 「主任は行かないんですか」  と逆に問い返してきた。 「いったい何処へ行こうというんだ」  助手達は信じられないというように首を振って、 「だって聞えているでしょう……。あそこへ行くんですよ」  と数寄屋橋の方向を指さして見せた。 「聞える?……何が?」  俺も思わず耳を澄ませた。何も聞えはしなかった。電車と自動車のひしめき通る混成音だけだ。ふと気がつくとそのあいだに、二人とも小走りに階段を降りて行ってしまった。俺は非常階段の踊り場に出て、劇場の前の路を見た。  向い側の劇場から、見覚えのある制服を着た女達がぞろぞろ出て来るのが見えた。ロビーが騒がしくなったので振りかえると、客席のドアが開け放されて、客がぞろぞろと出て来るところだった。  まだ終映の時間ではない。腕時計を見ると、終るまでにまだ二十分以上もある。映画はこれから面白くなるところだ。高い金を払って途中で出てしまう客の気が知れなかった。  客の半分はロビーの向う側の中央階段から降り始め、残りの半分は俺の眼の前を通って非常階段から表へ出て行く。いつも入れ替えの時にはこんな客の流れ方をするのだが、今日の客は馬鹿に行儀良く歩いて行く。  俺は何が何だか判らなくなってきた。客をかき分けてロビーヘ戻ろうとした。そんなに乱暴に客の間を通り抜けたわけではないのだが、客はまるで俺が悪いことでもしたかのように振り返ると、冷たい眼で俺を見た。口を尖らせて、何か不平を言いたそうにしている中年の男もいる。  今日は何の日だったろう。火災演習だったかな。それとも……。俺の頭は空まわりを続けた。  気がつくと、客の最後尾が二階から姿を消して行くところだった。あけ放しになったドアから、馬に乗ったジョン・ウェインが見えた。まだフィルムは廻っているらしい。  ずいぶん時間が経っているような気がしたが、あの場面が出ているところを見ると、さっきの一巻がまだ終ってはいないのだ。すると大した時間ではない。俺は腰をおろして煙草に火を点けた。  とにかく少し変なのだ。火事でもない限り、客が映画の終らないうちに全部帰ってしまうはずがない。それなのに、俺は客が全部出て行くのを見届けてしまった。そればかりではない。前の映画館からも、従業員を先頭にして観客が吐き出されていた。  すると、皆が一斉に狂ったか、俺一人が狂ったのかどちらかだ。狂った俺が失業するのを想像して、俺は嫌な気分になった。俺は立ち上って一階へ降りて行った。  階段を降り切ると、俺は事務室のドアまで走って行って、それを乱暴に開いた。見慣れた机が見慣れた乱雑さの中に置かれている。ポスターの山も今朝と同じだ。  だが、誰もいなかった。事務室から廊下を横切って客席を覗いたが、フィルムが切れたらしく、白く光るスクリーンに照らされた場内には、誰一人いはしなかった。  誰かがその時の俺を見ていたら、きっと泣き顔を見たに違いない。自分で判ったくらい顔面がゆがんでいた。  俺は全速力で表へ飛び出した。晴れた真昼の街はいつものように人の気配がしていた。俺は思わず安堵《あんど》の息をついた。人のいなくなったのは、どうやらこの劇場街だけらしい。向うの電車通りはいつものように人の列が続いていた。  とすると……。俺の頭にはまた不吉な考えが浮んだ。この一劃《いつかく》からだけ人間がいなくなったと言うことは、ここが何かの危険に曝《さら》されているためなのか。  俺は人影を求めて、また一目散に走り出した。妙に静まり返った劇場街に俺の靴音が跳ね返り、誰かが追ってでもくるような気がした。走りながら、通りの様子がすこし変だとは感じていたが、通りについて一息入れるとすぐ、何が妙なのか、はっきりわかった。  全部の人間が日比谷を背にして歩いているのだ。日曜でもこんなに人の出ることはない。今までに見たこともないような人の波が、揃《そろ》いも揃って尾張町の方向に歩いて行く。まるでデモのようだ。  いつもなら食堂の前で何を食おうかと考えている奴や、買いもしないのに洋品屋の飾窓を覗き込んでいる奴がいて、歩道の人波はどうしても乱れるものなのだが、今日はまるで違っていた。  立ち止る奴も、逆の方向に歩いている奴もいない。全部の人間が、一定の速度でまっすぐに歩いている。俺は何が起ったのかよく見ようと思って、人波をかきわけて車道へ出た。  眼の届く限りの人波は正確に尾張町の方へ進んでいる。もっと奇妙なことは、車という車が全部停まりだしたことだ。駐車禁止の黄色いペンキを塗った舗道の端にでも、交叉点の停止線にでも、所かまわず停めると、乗っていた者は車を棄ててそのまま人の列に加わり始めた。振り返ると日比谷の方の車はまだ動いていて、こちらへ向って走って来る。  しかし桜田門へ向う車は全部停まってしまっている。暫くすると、車は一切、日比谷の交叉点からこちら側へ入って来ないことがわかった。だから車はどんどん桜田門の方へ詰まっていき、見る間に車の列が伸びていった。  俺は交叉点で警官が車を堰《せ》き止めているものだとばかり思っていたが、いくら見ても整理する警官は見当らなかった。  そこここに空っぽの都電が停まっていたし、どの商店にも客はおろか店員一人いない有様だった。そして街路には、いたるところから吐き出された男女が、真一文字に歩いているだけだった。  まったく無表情なのがいるかと思えば、まるで嬉しくて仕方がないような顔をしている者もいる。誰もかれもが一様に背筋をしゃんと伸ばして歩いていた。薄気味悪いことに、誰もお互いに口をきこうとはしない。  いつもの都会の騒音——電車の音、自動車の音、話し声のすべてが、ぴたりと静まりかえって、ただ耳に入るのは街を行進する群衆の足音と、広告塔から聞える音楽だけだった。それもすぐにレコードの空転する雑音にかわる。そして群衆の歩く両側にそって、ハンドバッグや男物の皮鞄、ハトロン紙や商店の包装紙につつまれた品物が、ごみのように放り出されて散乱しはじめた。  群衆の歩調は相当早く、疎《まば》らになったかと思うとすぐまた押し合うように大勢の人間がやって来た。その中に警官の一団をみつけたので、俺は事情を聞いてみようとした。  足早やに進む警官の一人に歩調を合わせながら、 「何があったのですか。それとも何かあるんですか」  と訊ねると、彼はまるで掴みどころのない表情で俺をちらりと眺め、 「早く行かないとあとがつかえる」  と言ったきり、また前を向いてしまった。俺はもう一人の警官をつかまえ、今度はしつこく食い下った。 「みんなどこへ行くんですか。いったい何が起ったのです」  警官は知らん顔だった。俺は制服の袖を掴むと人の列の外へ引っ張って行こうとした。  すると突然、警官は憤りをありありと顔に出して俺を突き飛ばした。俺は時計屋の飾窓にいやというほど背中をぶつけ窓のガラスがびっくりするほど大きな音をたてて割れた。  それなのに、誰も俺を見向きもしない! 俺はもう我慢できなかった。人波を避けて細い横丁へはいると、眼の前を歩いて行く人間を眺めながら、この異常な事態の真相を探るべく作戦をたてた。  歩いている人間は、皆自分がどこに行こうとしているのか知っているのだ。しかも急いでいる。俺がしつっこく訊ねても教えてくれないのはなぜだか判らないが、とにかく歩く邪魔をすると彼等はひどく腹を立てる。強そうな奴では今のように喧嘩になってしまうから、弱そうな誰かを列から引き留めて、無理にでも聞くしかない。  そうだ、子供が良い。中学生ぐらいならわけの判った返事をしてくれるだろう。そのくらいの子供なら抱えて逃げることもできる。  俺は考えをまとめると、なるべく怪しまれないように群衆の中へ飛び込んで一緒に歩き出した。  数寄屋橋の近くまでそうやって行くと、よそ行きの服を着て大きなリボンをつけた女の子が見つかった。小走りに近寄ってさっと抱えあげ、夢中で角の百貨店へとび込み、店の中を通り抜けて別の出口から人気のない裏通りへ脱け出した。母親らしいのが追って来たような気がしたが、俺はすぐ返してやるつもりだった。  手近の誰もいない喫茶店へ逃げ込むと女の子を降ろした。女の子はびっくりしたらしく、泣きもせずポカンとしていた。 「お願いだからおじさんに教えてくれよ。どこへ行こうとしていたの」  女の子は助手がしていたように築地のほうを指で示した。 「何があるの」 「待っているのよ」 「何が……」  俺はもどかしい思いを懸命にこらえて、できるだけ優しく訊ねた。 「ねえ、何が待っているの。どうして待っているのが判ったの」 「聞えるんですもの……」 「何と言っているの」  女の子はまた黙ってしまったが、俺には彼女が言葉に表わそうと骨を折っているのが判ったので、そのまま彼女の言葉を待った。女の子の顔はだんだん泣き出しそうになり、しまいに声をあげて泣き出した。  俺はがっかりして女の子を母親に返すことにした。ところがさっきの百貨店へ行って見ると誰もいなかった。それなのに女の子は母親を探そうともせず、人の列に加わって歩き出したので、俺は責任を感じた。そして、この子の母親を探しながら、この列がどこまで続いているか見極めてやろうと思った。  銀座四丁目を過ぎ、三原橋の交叉点を渡るとますます人の列は膨れ上り、歩道も車道も人間で埋まった。俺は用心して道の一番端を、女の子の手を引きながら歩いて行った。  しかし築地の交叉点を過ぎた時、俺の忍耐力も限界に来てしまった。小さな橋の上から眺めると、人の波は勝鬨橋《かちどきばし》を越えてずっと続いているのが判ったからだ。  俺は何かの本で、レミングという鼠が繁殖しすぎると、集団で大行進を起しついには海中へ入ってしまうという話を読んだのを思い出した。  その時はじめて、狂っているのはこの大群衆で、自分は正常なのだという自信を持った。このまま行けば、行進は海の中へ入ってしまいかねないからだ。  俺は女の子の手を離すと、列から離れて迷路のような魚市場の露地へさまよい込んだ。生臭い商品が所狭しと並んでいる露地の中で、俺はどうしたらこの群衆のいきつくところを安全に見れるかと考えた。そして、そう思いつくと、是が非でもそこへ行ってやろうと思った。     2  人の流れを横切るために、橋の下を小舟で潜り抜けたり、人のいない脇道を選んで遠廻りしながら、一時間もかかって晴海のアパートへ辿《たど》りついた時にはガックリしてしまった。  途中で無断拝借してきた自転車をアパートの前に放り出すと、俺はまっすぐ屋上へ登った。このアパートも、思った通り人っ子一人いなかった。  俺は息をのんだ。生まれてからこんな淋しい光景を眺めたことはなかった。  ずっと右手の濁った海の上に、信じられないほど大きな半球が浮んでいて、波のない穏やかな水の上に、陸からその半球まで、広い橋が帯のようにつながり、群衆の行進はその半球がポッカリ開いた穴窟のような入口に呑み込まれて終っていた。  その半球をよく見ると、それは完全に円いのではなく、頂上が少し削られて、その上に小さな建物のような物がのっていた。  俺は間断なく半球に呑み込まれる人間の列を、一時間ばかり馬鹿のように眺めていた。あまりの淋しさに魂が抜けたようになっていたのだ。  この東京に勝手|気儘《きまま》にひしめいていた人間。山手線に乗り、自動車で、バスで。デパートでうろつき、劇場の前で、レストランの中で、横断歩道の赤い灯を見つめて——。  そうした俺と同じ奴等が、急に何かを聞きつけてぞろぞろとこの海辺に集まり、あの馬鹿でかい球の中に自から進んで入って行く。  ついさっきまで俺と同じ人間だと思って安心していた奴等が、俺には理解できない行動を起しているのだ。それも五人や十人ではない。ありとあらゆる人間がだ。俺は急に奴等と意思の通じない人間になってしまったのだ。  ……橋の上の人間の列が急に切れた。半球が入口を閉じて動き出したのだった。すーっと浮いた。舞い上る。完全な球体だ……。  俺は手をかざしてゆっくり上昇する球を見上げた。巨大な鉛色の球体だった。次の瞬間思わず俺は眼を閉じた。  巨大な球が橙色に強く光り輝いて急に走り出したからだ。閉じた網膜に橙色をした楕円形の巨大な映像が焼きついた。  恐る恐る眼をあけると、橙色の球はなくなっていて、さっきのところに同じような半球が口をあけており、再び橋を群衆が渡りはじめていた。  俺は打ちひしがれた気持で、とぼとぼとアパートの階段を降り、自転車のハンドルを立て直すと、人のいない道を、ゆっくり銀座に向って走り出した。俺の脳はあまりにも巨大な疑問に答える術もなくなっていた。鉛色の球体の正体が何なのかも、考えなかった。  あれが全部でないはずだ。全部いなくなるはずはない。現に俺のようなごく平凡な人間がここに残っているではないか。平凡ということは、いちばん数が多いということだ。俺といっしょにこの事件を考えてくれる人間がどこかにいるはずだ。  俺は自分の平凡さに自信があった。そんな平凡な人間が取りのこされることは絶対にないのだ。不景気からも、地震のような災害からも、戦争からも……。大きな事件には何だって人並みに巻き込まれてきた。とすると、今歩いて行く奴等はきっと特別な人間達なのだろう。  そうだ、特別な奴等なのだ。確かに群衆には違いないが、あれでもこの大東京の人口の何分の一かにも当らないのだろう。  俺はなんとなく自分の考えを正しいと決め、無理に納得した。そうせずにはいられなかった。自分がごく平凡な人間であることがこれほど頼もしく感じられたことはなかった。俺は当り前なのだ。だから一番大勢の人間と同じ運命を担っている。仮りに東京中の人間があの球に乗ってどこか遠いところへ行ってしまったとしても、すぐ東京は人で溢れるようになるに違いない。  今起きている事件は確かに大事件で、明日になって他の土地の人間がこれを知ったとしたら、天地がひっくり返るほどの大騒ぎになるだろう。  ひょっとすると東京は大混乱を起すかもしれない。そして、いつものように要領のよい奴が大儲《おおもう》けをするのだ。もしかすると俺は目撃者として、週刊誌あたりに写真がのるかもしれない。その時、あの光景を何と描写しよう。  俺はいつの間にか銀座に近づいていた。デパートの上の赤い旗を見上げながら、胸がドキドキしだした。  ……待てよ。俺だってこのドサクサに紛れて一財産作れるのではないだろうか……。俺は自転車のペダルに力を入れると、一番近いデパート目ざして全速力で走り出した。  案の定、デパートには誰もいなかった。今となってはこの界隈に人っ子一人いないことは決定的な事実なのだ。俺は一階の鞄売場へ行くと、棚から一番大きな鞄をひきずり出した。その勢いで大小の鞄が大きな音をたてて転がり落ちたので、俺は思わずあたりを見廻した。  ゴトゴト音をたてているエスカレーターに乗ると、人気のないデパートの中をぐんぐん登って行った。  宝石、時計、カメラと山積みのフィルム。トランジスター・ラジオ。ワイシャツや肌着。猟銃と弾薬……。どれもこれも俺が夢に描いていた物ばかりだった。正札の一番高い物ばかりを鞄につめ込んだ。  小一時間もデパートの中にいただろうか。出てきた俺をもし知っている奴が見たらどう思っただろう。上から下まで新品で、靴も背広もパリッとしていた。  ワイシャツのカフス釦《ぼたん》は純金だし、ネクタイピンにはダイヤの粒が光っている。胸には最高級の万年筆がさし込んであり、口には高価な葉巻きがあった。肩に銃をかけ、大きな鞄をぶら下げているのは少し珍妙かもしれないが。  さてそうやって見ると、我ながらおかしいことに行先きに困ってしまった。まだ続いている人の波を見ながら、俺はその方角から見えないように鞄をおろし、その上に腰かけた。  劇場に戻っても仕方がないし、家へ帰るにも電車が停っていた。第一凄く腹が減りだした。どこへ行っても人間がいないのでは仕方がないし、家へ帰って見たところで、どうにかなるとは思えなかった。兄弟は一人も東京にいないし、近くには心配になる知り合いもいなかった。  そうだ、どうせ誰もいないなら劇場の傍のホテルを占領してやれ。それも最高級の部屋だ。料理場を探せば食う物はいくらでもあるはずだ。酒だってあるだろう。  俺は鞄を持ちあげると、向うの交叉点を渡っている群衆の誰にも気づかれないように、一気に通りを突っ切った。しかし、どうにも鞄の重いのが気に入らない。車に乗ろう。  車はいくらでもあった。そばにシボレーがある。鍵も差し込んだままだ。免許証は家に置いて来てしまったが、必要はあるまいと思われた。  俺は、両側に停まっている車の間を、ゆっくりとホテルに向った。  ホテルに着くと、部屋を物色した末、一番良さそうな部屋で鞄を投げ出した。窓をあけてべッドにひっくり返って見たがどうも落ちつかない。起き上ると、食堂へ降りて行った。  食堂のテーブルのそこここに食べかけの料理が散らばり、食事をしていた人間がそのまま出て行ったことをしめしていた。調理室のドアの中は、客に出すばかりになったのや、盛りつけの途中で止めた皿が並んでいた。俺は手当り次第にそれらを腹につめ込んだ。  腹が一杯になると、俺はロビーにあるふかふかのソファーに身を沈めて葉巻きをつけ、これからどうしようか、と考えた。自分でも意外なくらい度胸が坐ってきた。  この騒ぎが収まれば、こんなところにふんぞり返っていることなど、できはしないのだ。しかし、俺がこの騒ぎにうまく大金を掴《つか》めばそれも夢でなくなる。  俺があの連中にまき込まれなかったのは、もしかすると一生一度の大幸運なのかもしれない。街には誰一人いないのだ。デパートも、ホテルも。……銀行だって……。  俺は途端に飛びあがると、無断で占領した部屋へ駆け上った。自分でもよく判らないほど昂奮していて、とにかく降りてきた時には猟銃に弾をこめ、空の皮鞄をさげてハンチングをかぶり、皮手袋をはめ、おまけにネッカチーフを首にまいていた。  車をホテルのすぐ傍にある銀行の前に、エンジンをかけ放しにして停めると、ネッカチーフで顔を隠して、恐る恐る銀行の重い扉を押した。……やっぱり誰もいなかった。  今にも破裂しそうな心臓を押えながら、手当り次第に紙幣を鞄に詰め込んだ俺は、車に乗ると次の銀行に向った。  五つばかりの銀行を廻ると、厭《いや》というほど金持になった。俺は、ホテルに着くと食堂の脇のバーに寄り、ウィスキーを一瓶《ひとびん》持ち出して部屋へ帰った。  もう俺は犯罪者になったのだ。追われる身なのだ。さぞ嫌な感じがするだろうと思って、気をまぎらすためにウィスキーを持ってきたのだが、さて飲む段になるとさっぱり追われる気分にはなれなかった。追われている実感が湧いてこないのだ。なにしろこの街には俺のほかには誰ひとりいないのだから。  そう考えると、今度は次第に虚しい気分になって、やっと酒をそれらしく飲めるようになった。  薄暗くなったので電気を点けた。電灯はついた。すると電気関係の人間はまだ働いているのか? だが電気は自動制御だろうから、それも証拠にはならない。  俺はだんだん暗くなる空を見ながらウィスキーを飲み続けた。もともと弱いほうではないが、今日は馬鹿に酔いが廻らなかった。飲みつくして、また一本、暗い階段を降りて取ってきた。  廊下やロビーは暗かったが、スイッチの所在がわからなかった。  二本目をあけるとさすがに酔いがまわって、妙に気分が昂揚してきた。銃をかかえて屋上へ行って見ると、街に点々とネオンが輝いている。自動点滅装置のためだろう。人は相変らず続いているらしかった。 「おーい」  俺はその方向に怒鳴った。 「どこへ行こうというんだ……どこへ行っちまうんだ、馬鹿野郎。どいつもこいつも気が狂いやがったのか」  ありったけの声でどなると、一気にアルコールが廻ってかっと身体中が熱くなった。 「俺は狂っちゃいねえぞ」  そうだ。俺は当り前なのだ。 「俺は行かない。俺は当り前なんだ」  俺は平凡な男だ。生まれてこのかた、一度も特別な人間だと思ったことはないのだ。 「お前等は特別なんだ」  酔いが廻って、自分がどこにいるのかもはっきりしなかった。 「特別なんだ。だから行っちまうんだ。別誂《べつあつら》えの大馬鹿野郎ども……」  おふくろも、おやじも、俺たちはみんな平凡だった。だから貧乏で、苦労して……。 「俺は金持だぞ。紙幣の中で寝るんだ」  息が切れた。俺は喚くかわりに銃を夜空に向けて引き金を引いた。案外簡単に弾が飛び出して、物凄い音といっしょに右の肩が棒で撲られたようにしびれた。耳はなる、肩は痛いで、俺はすっかり閉口して、よろめきながら部屋へ戻った。  そのままべッドに倒れ込んだのは知っているが、いつ睡ったのか気がつかなかった。顔を照らす陽の光で目を覚ました。  ひどい二日酔いでふらふらしたが、我慢してホテルの外へ出た。見慣れた劇場街が何もなかったように明るい太陽に照らされていて、昨日の出来事が悪夢のように思い出された。だが、夢でなかった証拠に、街路には依然として人影がなかった。  あけ放たれた劇場を何とも言えない気持で覗き込みながら通りすぎると、きのうあの大群衆が行進していた電車通りへ向った。  俺の足音以外はパタパタと鳴るジュース・スタンドの日除けテントと、風に押されてわずかに開閉する喫茶店のドアの軋《きし》む音だけだ。そんな街を、俺は自分の災難を確かめに行くような気持で、ゆっくり電車通りへ出て行った。  いっそのこと、爽快《そうかい》な眺《なが》めとでも言ってしまおうか。右も左も、すべてが静止した街路はまるで見知らぬ街のようだ。深夜にはよくこれと似た光景を見たものだったが、真っ昼間の太陽の下で見る人っ子一人いない街は、夜中のような情感も漂っていず、やたらにドライで、やたらに乱雑で、そして空虚だった。  道路は、行進して行った人々が投げ棄てた雑多な品物でゴタゴタしていた。人のいない街を吹き抜ける風が、新聞紙を時折舞い上げた。その時になって初めて、取り残されたのではないかという真の恐怖を感じだした。  きのうはとにかくまだ人間がいた。ところが今日は、まったく一人も見えないのだ。東京の他の町はどうなったのだろう? 突然心配になって、俺は急いでホテルヘ引きかえした。用心のため、銃を車に入れると、まず新宿のほうへ車を走らせた。  警視庁の建物の反対側で車を停めた俺は、建物の入口を注意深く観察した。人の出入りがまったくないのを確かめると車を正面につけ、恐る恐る中へ入って行った。結局ここにも人間はいなかった。俺は両手に拳銃《けんじゆう》のついたベルトを二本ずつぶら下げて、車へ戻った。  誰もいないとなると、自分は自分で守らねばならない。武器を持っていることは、それだけ安全だということだ。  それからは、ただもう、東京中を走りまわった。行けども行けども人の気配はなく、眼につく生き物と言えば犬と猫と、ときおり見かけた牛や馬だけだった。  方々で火災が起きていた。商店街からも住宅地からも煙が昇っているのが見えた。電気はいつの間にかとまっていたが、ガスや水道はまだ出ている。このまま放置すれば、東京中が焼け野原になる心配もある。が、俺ひとりではどうなるものでもないのだ。  車を走らせながら、今日はすっかり冷静になっているのを意識した、と同時に、きのうの俺の狼狽振りが思い出されて、我ながらはずかしくなった。東京中が無人になったということは、日本中が同じだということかもしれない。きのうの朝刊に出ていたあの記事は、多分これと同じことだったのだろう。  船や航空機の行方不明も同じ原因からとしか思えない。そうなれば、俺は一生ひとりで生きて行かねばならない。とにかく生きのびること。それが俺の目的だ。幸い無人島へ漂着したわけではなく、このマンモス・シティ東京を、俺ひとりが占有しているのだから、物に困るということはない。  車はどこにでもゴロゴロしているし、ガソリンスタンドも無数にある。たくさんの飼犬が野犬化すると、俺ひとりではちょっと危険かも知れないが、まだ当分の間は奴等もおとなしい筈だ。  そんなことを考えながら走っていると、この誰もいない町並みの中に、ひとつの奇妙な傾向があるのに気づいた。  ある通りには殆《ほとん》ど車がなく、ある道路にはえんえんとして車の列が続いているのだ。俺は車の密度の高い方へ、高い方へと行って見た。一定のところまで来ると、赤信号にでくわしたように、車はそれからさきはふっつりと減って、投げ出された品物が道路の脇に散乱していた。  それを見てすぐに、俺はそれが何を意味するのかをさとった。行進の跡なのだ。だから、そのさきには必ずあの行列を呑み込む巨大な球体が口をあけて居たはずなのだ。  さらに進むと、その通りは必ず大きな公園や競技場のような空き地につき当っていた。そして巨大な半球状に窪んだ土が、そこにあの鉛色から橙色に変る球が鎮座していたことをはっきりと示していた。……あれは何ヶ所にも舞い降りて来たのだ。そしてみんな連れて行ってしまった。  電気学校を卒業してこのかた、俺は兄弟とも逢っていなかったし、両親もとうに死んでしまっていた。親友というものも格別にこしらえなかった。誰とも通り一遍のつき合いしかして来なかったから、急に人が見えなくなっても、自分で考えているより淋しがっていないのかもしれなかった。  現に、こうして無人の街を走っていても普段と同じだ。むしろ、人がぞろぞろ歩いていれば、俺にとっては邪魔なだけではなかったろうか。  また火事の煙が見えてきた。  そうなのだ。赤の他人がいくらいたところで、俺はひとりぼっちだった。彼等は存在しているだけで、結局俺は以前から今のようにひとりきりだったのだ。  とすれば、今の状態の方がずっと自由だ。人間が無数にいた時は、街角に腰を降してひとやすみするのも、ままならなかった。木の葉一枚草一本にも持ち主があり、水を飲むにも横になって体をやすめるのにも他人の許しが必要だった。考えてみれば、この状態のほうが自然なのかもしれない。  今度の火事はひどかった。数十軒の家が一団となって燃えあがっている。  俺は燃え上る煙と炎の渦をながめながら、もうホテルヘ帰ろうと思った。人間にも鳩のような帰巣本能があるのだろうか。こうなったら東京中のどの家に入って寝ても同じことだろうに。  そこからUターンしてしばらく、急に腹の減っているのに気付いた。俺は通りがかりの小綺麗な家を見つけて車を降りると、食堂の調理室の冷蔵庫からハムやソーセージを見つけて食った。二日酔いもどうやら収まっていた。  食いながらふと気がついた。このままでは、やがて、生の肉類を手に入れるのも困難になる。  食事を済ませた俺は外へ出て附近の商店を物色した。すぐ近くに目的の電気屋が見つかったので、ゆうべ不便をした懐中電灯を取り、電池のたくさんはいった箱をかかえて電気屋を出た。そのとき、隣りの洋品屋の飾窓にカーキ色の作業服を着たマネキン人形が立っていたので、俺はふとその前で考えこんだ。  自分の服を眺め廻した俺は思わず声をたてて笑ってしまった。人が見てもいないのに、シャレた紳士ぶりが滑稽だったのだ。苦笑からはじまった哄笑は、やけっぱちな虚しい笑いに変って、俺は、ゲラゲラ笑いながら背広を脱ぎ棄てると店へはいって人形をひきずり出し、カーキ色の作業服に着換えた。ついでに防水加工をした同じ色の上着も持って出た。  車に荷物を放り込むと、今度は食堂の隣りの靴屋にはいって、俺にぴったりの半長靴を履いて車に乗った。車の中で警視庁から頂いてきたガンベルトを腰にまく。まるで安物の西部劇スターといったスタイルだった。  赤坂見附附近まで戻って来た時、屋根にスピーカーをつけたパトロールカーがあるのに気がついた。俺はことさら乱暴にその傍へ車を停めた。  警察の車だから手入れの悪かろうはずはなかった。スピーカーがあれば人間をみつけたとき役にたつ。投光器もあるし無線もある。……俺は荷物を積み替えると、パトロールカーのサイレンのボタンを押してみた。  走り出した車の甲高いサイレンの音が、空虚な街に鳴り響いて青空に消えていった。俺を避けてでもいるように、道路の脇にはたくさんの車が停まっていて、通り過ぎたら動き出すのではないかという錯覚に捉われた。  いかにも客待ち顔の商店や、今にもネクタイをきちんと締めたサラリーマンが出て来そうなビルを眺めていると、誰もいないのが嘘のような気がして、再び虚ろな気分に襲われサイレンを止めた。  長く、次第に低く消えて行くサイレンを聞きながらハンドルを握っていたとき、俺は思わずアッと叫んでブレーキを力一杯蹴った。  右側の建物の玄関の植込みの蔭に、真っ白な着物を着た幽霊のような者を見たのだ。俺は息を呑んでそれをみつめた。  それはまるで宙に浮いているかのようにフワフワとした足取りで、はっきり俺の視線の中へはいって来る。こちらに向って両手をあげ、何か叫んだと思うと、短い石の階段を転がり落ちて舗道に倒れた。  俺はそれが倒れる瞬間に、はっきりと人間であることを認めた。俺はドアをあけるのももどかしく、そのほうに駆け寄った。  ……人間がいた。残っていた。俺ひとりではなかった。口に出してそう言ったかもしれない。頭の中で考えただけかもしれない。  それは男だった。活気のまるでない蒼白い顔。男は、俺が助け起しても動かなかった。 「どうしたんだ。しっかりしろ。なぜ残っていたんだ。誰なんだ」  俺は矢継ぎ早やに言った。男は両手をだらりと下げ、首の力を抜いて、顔を雲ひとつない青空に向け、俺の腕に抱かれていた。  落ちついてくると、どうやら事態を呑み込むことができた。男は病人なのだ。彼の出てきた建物は病院だった。着ている物は、手術する時に着せるあの白い布だった。腹部は流れ出した血で赫く染まっているし、もう黒ずんでいる部分もある。  ちょうどあのとき手術中だったのだろう。重病人らしいのが背負われて行くのを見たが、この男は死んだものとして見棄てられたにちがいない。ところが、腹を切り開かれたままで奇蹟的に生きていたのだ。  意識が戻ってもどうしようもなかったに違いない。そして今サイレンが聞えた。男は助けを求めに、恐ろしいほどの生への執着を振りしぼってよろめき出たのだ。男は見るまに冷たくなっていった。  俺は肉身の臨終を看取《みと》るような悲しい思いで、腕の中の男を舗道に横たえた。恐怖と焦燥と、つかの間の希望をありありと映し出したその死顔を、俺はじっと見つめた。  悲しかった。むやみと悲しかった。昨日までは数知れぬ人間のいたこの東京の街々を、今日は一日がかりで人間を求めて走り廻った挙句、やっとめぐり会った男は眼の前で死んでしまったのだ。彼は希望のサイレンを耳にして死んでいったが、俺は孤独と絶望の中で生きてゆかねばならない……。 「畜生、畜生、畜生」  ひざまずいて男の死顔を見ている内に、口惜しさと、不可解への焦りと、未知への恐怖と、孤独の悲しみとの入り混った狂暴な憤怒に襲われて、四角く並んだ舗道の敷石を両の拳で力一杯打ち続けた。涙は止めどもなくしたたり落ち、白く乾いた石の上に黒い点がぽつりぽつりと増えた。それが涙に滲んで見えなくなった。  きのうからできた東京というこの巨大な廃墟にはりめぐらされた電線を渡る風の音が、細く、鋭く鳴っていた。     3  あの見知らぬ男を埋葬してから、一ヶ月たった。  人々が帰って来るかもしれないという、儚《はかな》い希望を、もうとうの昔に棄ててしまった。来る日も来る日も、俺は人々がどこへ行ってしまったのか、なぜ行ってしまったのかという疑問の答を探し続けた。無意味な探究は俺を疲れさせ、俺は痩《や》せ細っていった。  住宅地の方へ行くと、犬がかなり大きな集団でうろついていた。方々に大きな焼跡ができているし、何よりも鼠が横着になったのがめだった。  空の色が変って来た。まるで高原の空のように青く澄んで、天気さえ良ければ、いつでも富士山が眺《なが》められる。方々の川の水も澄んできた。この事実から、俺は人間がどれほど自然をそこねてきたか、今になって思い知らされた思いだった。  気温さえ今までより低かった。疑問に対する解答は、いまだに見つからなかったが、やがて、俺は一縷《いちる》の希望を見出していた。俺がここにこうしているということはつまり、人間がひとりもいなくなったのではないということなのだ。俺がいるということは、どこかで誰かが同じように取り残されていなければならないということだ。俺ひとりが例外である確率よりも、大阪や横浜や、仙台やその他にも誰かがいる確率のほうが、ずっと高いはずだった。  ひょっとすると、東京のどこかにさえいるかもしれない……。俺はそれを信じた。だから最善を尽して、他の人間と連絡できるように手を打った。  一番さきにしたことは、電気をもう一度ホテルに通じさせることだった。変電所や発電所は手に負えなかったが、隣りの劇場に自家発電の装置があった。それならお手のものなのだ。焼き切れたら、修理はちょっとむずかしいが、そのかわり、近くに幾つでも劇場がある。  俺は街で電線をしこたま見つけてきてホテルの必要な所へ配線し、燃料を劇場の前へ山積みすると、発電機のスイッチを入れて、ホテルに電気を送りこんだ。  冷えたビールにも事欠かなくなった。劇場の照明灯をホテルの屋上に持ち上げ、そこら中の自動車のバッテリーを外して充電すると、緊急用の投光器を作った。  目黒の俺のアパートの大家の息子が、アマチュア無線家だったのを思い出して、無線機を取ってきて、ホテルのロビーに据えつけた。そのほか、できるだけ多くの受信機を持ち込んでいろいろな波長にセットすると、どれに電波が入っても、パトロールカーから外したサイレンが鳴り出すようにした。  警視庁から信号弾を取ってきて用意したし、東京の要所要所の交叉点へ行って、俺のいどころを、赤ペンキで道路にデカデカと書いてきた。放送局へも行って見たが、これは仕掛けが大きすぎて、俺の手には負えなかった。  水道は水が悪くなって使い物にならないが、幸いホテルには井戸があって、自動ポンプがついていた。煙草も酒も無尽蔵だし、探せば無い物はなかった。ただ、新鮮な野菜だけが例外だった。用心のため総合ビタミン剤を薬屋からもってきて服んだ。  洗濯《せんたく》は一度もしなかった。汚れれば新品と取り換えるだけだ。退屈したり、気が滅入ったりすると、銃を撃ったり、ボリュームを最大にして、両側の劇場の二階に置いたスピーカーから流れ出るステレオを楽しんだりした。  一度、かなり大きな地震があって、俺は人間のいなくなった地球に最後が訪れたのかと思い、縮み上ってしまった。あとで考えて見れば、それくらいの地震は時々あったし、家の中で平気な顔をしていたものだったのに。  こうして、とにもかくにも俺は生きている。この分だと、まだ当分は大丈夫だ。  俺はたった今、パトロールから帰って来た。パトカーで東京の街を毎日少しずつ、徹底的に廻っているのだ。おかげで最初のパトカーは故障してしまい、今使っているのは二台目だ。もちろん、あの死んだ男に逢った時のように、サイレンを鳴らしながら走るのだ。  俺はどこかに人間が残っていることを信じている。しかし、心の底には、もしかするといないかもしれない、という怖れが、いつまでもこびりついて離れない。これを大きく育ててしまうのは、とても危険だと思う。だれもいなくなった後の俺にとって、最大の敵はそれなのだ。月を眺めていたりする時、その敵が不意に膨れ上って、俺に襲いかかりそうなことが、この頃はよくあるのだ。  食物を求めて働かねばならないのだったら、太古の人間がそうであったように、それだけが生活と目的となり、仲間のない淋しさも、もっと楽になったのかもしれないのだ。俺はあまりにもたくさんの物を持ちすぎている。  機械いじりに疲れた俺は、ロビーに置いたレコードプレイヤーヘ行って、今日街から持って来たステレオをかけ、中庭の芝生に横になった。スピーカーは、この位置で聴くようにセットしてあるのだ。  ベートーベンだった。美しい音の洪水に魂を漂わせていると、いつの間にか涙が溢《あふ》れ、俺はそれに溺《おぼ》れた。  可憐《かれん》な娘が恋をしていた。希望に溢れた学生が、画家が、小説家が、俳優が、それぞれの目的をもってこの東京に生きていた。  都電の車掌も、パチンコ屋の景品買いも、生意気なバーテンダーも。それぞれがそれぞれの生活を守って一生懸命だった。  親と子が、兄と妹が、先生と生徒が、毎日を親し気な顔で共にしていた。それが今はどこにいるのだ。あの気狂いじみた行進さえなかったら、彼らは今もこの東京を歩きまわり、野球場で歓声を挙げ、ボクシングのテレビに体を堅くし、酒場で恋を悦《たの》しんでいただろうに。  彼等の愛した犬は、汚れ切った野良犬になり、笑い声の響いた茶の間には、むなしい風が吹き抜けている。着換えも持たず、すべてを放り出していったいどうして生きているのだ。地球のどこかに、彼等の死体の山が築かれているのではないだろうか。  俺はふと神を思った。人間がひとりもいなくなって、神様はどうしていらっしゃるのだ? そう思うと、おかしくなった。そして気づいた。俺は何となく神があるような気がしていたのだ。あれがやはり人間の造り出したものだとすれば、もちろん人間の消滅と同時に、あれも消えてしまったはずだ。  しかし、もし神が在《あ》ったならば、無人のこの地球をなんと見るだろうか? もちろん解答はどこからもやってこなかった。そのかわりに、もし神が在ったなら、なぜ俺一人を残していったのか。全人類をとり除いて一人を残すとすれば、神は人格者を残したろうに。  俺はいたって平凡な人間だから、行いすました人格者などにはとてもなれるはずもなかった。その証拠に、誰もいなくなりかけたあの日、すでに手当り次第に盗みを働いた。人にみつかる可能性がなくて、自分が得をする事だったら、どうしてもせずにはいられない、そんな根性の持ち主なのだ。  結局俺は平凡すぎて、神にも科学にも平等に義理をたててしまう。科学だけではないような気もするし、神があるとも信じられない。本当の事を言えば、神を信じたほうがこの際気が楽なのだ。少くとも現実を、鋼鉄を齧《かじ》るように味わわされるよりは。  俺はどうにもやり切れなくなって起き上ると、空へ向けて叫んでみた。 「おーい……」 「誰もいないのか……」 「俺ひとりなのか……」 「返事をしろ……」  俺が怖れているように、世界中の人間が消えてしまい、そして本当に神があったとしたら、神は誰に気兼ねもなく俺の前へ現われてくれても良さそうな気がした。……そうしたら信じただろう。  だがそれはやはり現われず、何とも理由のつけにくい涙が俺の視界を滲ませるだけだった。判っていることは、すべてがむなしいということだけだ。パトロールも、赤ペンキの字も、音楽も、何もかも。  俺の声を聞きつけたのか、この附近には珍らしい十匹あまりの犬が、ホテルの入口で警戒気味にうろついていた。 「畜生。お前達の飼い主はどこへ行ったのだ」  俺は犬の群めがけて走り出した。犬達はさっと身を翻すと少し逃げ、俺を遠巻きにして喧《やか》ましく吠え出した。今は奴等だけが俺の心の通じる相手だった。  俺は奴等を蹴飛ばしてやろうと追いかけた。敵意でもいいから判ってもらいたかった。犬は適当な間隔を取って俺を避け、見事なチームワークで逆襲しようとする。俺は犬どもに立ち向った。犬が憎かったのではなかった。  俺を置き去りにした人間に対する怒りかもしれない。人間が狂暴に恋しかったのかもしれない。俺は自分が狂ったのだと思った。狂ってもよかった。生きても、死んでも、そんなことはもうどうでもよかった。すべてが零を指さしていた。人間であるという価値も、部屋一杯の紙幣も、劇場もホテルも電車も公園も。  俺は拳銃を抜くと犬を狙った。一発……一番大きなのが跳ね上って死んだ。二発……赤毛が一回転すると悲鳴を上げてよろよろと逃げ出した。三発……耳の立ったのがころげまわる。残りの奴等は一目散に劇場街から逃げ出して行った。  俺は右手の拳銃をみつめた。これが楽にしてくれる……。俺は突っ立ったまま、遠くにいた死を呼び寄せようとしていた。  人間を求めることそのことが、無意味になっていた。人間を見出し得た次の瞬間から、俺はまたあの些細《ささい》なことに心を煩わす、ケチ臭い世界へ戻らねばならないのだ。  人間同士の賞讃や愛が、虚しくないという保証はないのだ。  俺はまた空を仰いだ。高い建物にさえぎられて四角ばった空に、白い小さな雲がひとつ、ゆっくりと流れていた。俺はぼんやりとその雲の行方を見守っていた。  その時……。けたたましいサイレンが鳴り響き、俺の頭の中で幾重も谺《こだま》した。心臓は割れんばかりに膨れ上り、膝の関節はガクガクになって、暫くは動くこともできない。 「何かの故障なのだ。故障したのだ」  自分で自分にそう言い聞かせると、俺はロビーヘ走った。絶対に失望させられたくなかった。  ……人間がいたのか? いや故障だ。いや故障するはずがない。いや絶対に故障だ……。  期待と不安で、そのわずかの距離が、悪夢の中の道を行くように遠かった。 「生存者いるか、生存者いるか。こちらは第一国道を東上中。只今三田附近。生存者はいるか。生存者……」  喋《しやべ》っているのはロビーに並んだ受信機ではなく、中庭に停めたパトカーのラジオだった。俺は車のドアを開けるのももどかしく、マイクを掴むと一気に喋り出した。 「いるぞ。ここにいる。日比谷だ」 「ああ君だな。道路の字を見た。これから行くところだ」  相手の声は妙に落ちついていた。 「そっちは何人いる。俺はひとりきりだ」 「三十人ほどだ。誰も見つけなかったのか」 「誰もいやしない。いったい何が起こったのだ」 「着いたらゆっくり話そう。危険はないか」 「何もない。ただ、犬に気をつけてくれ」 「大丈夫。武器を持っている。そっちは?」 「俺も持っている」 「お元気ですか」  別な声が割って入った。女だった。 「ええ。そちらは」 「私達もよ。連絡が取れてよかったわね」  女の声は親し気で、本当に俺のいたことを喜んでくれているようだった。 「どこから来たのです」 「私は横浜。大阪からも九州からも来たわ。一号車。これから私達もこの人のところへ行きますか」 「そうしよう。今日はそこへ泊ろう」  最初の声が言った。 「ここはホテルだ。何百人だって泊れるよ」  俺は口をはさんだ。久し振りの人間の声は本当にこころよかった。 「物資は豊富だろうね」 「何だって揃《そろ》っている。そうだ、ビールを冷やしておこう」 「冷蔵庫があるのか」 「あるとも」 「それはいい。まだ電気が通じているのか」 「劇場の自家発電を使っているんだ」 「なるほど。早くこっちも気がつけばよかったな」  男の声が口惜しそうだったので、俺は得意になった。 「風呂は」 「プロパンガスを使っている」 「君は東京にいてもしあわせだ」 「切るよ。ビールを冷やして乾杯の用意をしとくから」 「どうぞ」  男女の声が重なって言った。俺は調理場へ走り込むと、冷蔵庫に入るだけのビールを突っ込んで二階へ駆け上り部屋の風呂に点火した。もうすぐやって来る人間達を迎えるために、じっとしていられなかった。  レコードをジャズに取り換え、調理場の箒《ほうき》で蜘蛛の巣を払った。外へ出て犬の死骸をマンホールヘ蹴込むと、何かすることはないかと見廻した。  地下室で発電機の燃料を補給していると、遠くにサイレンの音がきこえた。俺は大急ぎで仕事を済まし、表へ飛び出した。  パトロールカーが二台、中型のバス、キャデラック、大型トラックが一台。それらがこの劇場街へはいって来るところだった。  なんと形容したらいいだろう。その逞《たくま》しい自動車の列は、まるで孤立無援の守備隊へ、救援軍が到着したかのようだった。手を振っている人々は、全部初めて見る顔なのに、ひどく懐かしいものに思えた。華やかなジャズの響きにまじるエンジンの音は、今も忘れかねていた、あの人混みの雰囲気を再現させてくれた。  俺は車をホテルの中庭に誘導した。車が停まると、人々は飛び降りて来て俺のまわりをかこんだ。握手で手がいたかった。馬鹿力で背中を叩かれた。頭の毛を掻き廻す奴もいる。俺はありったけの笑顔で、いちいちそれに答えた。 「とにかくおめでとう。我々としても、ひとりでも多くなることは有難い」  初老の、がっしりとした体格の男が、落ちついた威厳のある口調で言った。俺は自然に丁寧な言葉遣いになっていた。 「助かりました。もう少し遅かったら、自殺しかねないところでした」  俺は先頭に立って一同を中へ案内した。十二、三人ほどが女だった。みな若かった。残りの男達もほとんどが若かった。みな活動的で清潔な衣服を身につけているところを見ると、誰でも俺のような考え方をしたらしい。そう言えば、パトロールカーを使っているのまで似ていた。  全員食堂に集まると、俺は女達に手伝ってもらって、ビールと食べ物をくばった。男達は冷えたビールに歓声をあげ、女達も思い思いの飲み物を持ち出して、男達の仲間入りをした。 「あの時もここにいたのか」 「いや、僕はそこの劇場の映写主任だ」 「帝国ホテルをひとり占めしているとは羨《うらや》ましいな。東京には君ひとりだけなのか」 「どうもそうらしい」 「あれから円盤を見たかい」 「円盤……」  俺は一瞬とまどった。 「人間を連れて行った鉛色の球体だ」 「あれが円盤か」 「そうだ。宇宙人のな」  考えてみないことではなかった。しかし、あのことの原因を、いきなり地球以外の未知の力に結びつけて考えてしまうことが、神を信ずることと同じに、あまりにも安直な解答に思えたので、俺は別な答を探しまわっていたのだった。 「今度の事件は宇宙のどこかに、我々よりすぐれた生物がいるという証拠だ」  初老の男は、年齢的に言っても、風格からいっても当然一同のリーダーだった。 「では、人類は宇宙人に連れ去られたのですか」 「一番納得のいく答だ」 「いったい、何の目的で……」 「分らん……我々が邪魔なのかもしれん。この地球という星が欲しいのかもしれん」 「それなら皆殺しにしてもよかったはずだわ、お父さん」  美しい娘が老人に言った。 「そうだ。だからますます判らんのだよ。標本にして自分の星へ持ち帰るにしては、根こそぎやったのがおかしい。人間は日本からだけではなく、恐らく世界中から、いなくなったのだろう。我々が最後に聞いたニュースから、そのことは推察できる」  俺は話を聞きながら、べつのことを考えていた。久しぶりに人間に逢えたせいばかりでなく、この連中は、好感の持てる人間ばかりだった。人間にはさまざまなタイプがあったが、この三十人ほどの人間は、全部俺の好きなタイプの人間だった。とりわけ秀れても見えず、ごく平凡な感じの人達である。偶然の一致なのだろうか。それとも俺の思い過ごしなのか。 「問題はまだある。なぜ我々が残ったかだ」  全員は静かに老人の言葉を待った。 「あんなに徹底的に人間を駆り集めた宇宙人なるものが、どうして我々を置いて行ったのだろう。我々に共通した因子は何なのだろう。わしは横浜の大学で、哲学を教えていた」  老人は、そう言って一同を眺め廻した。 「僕は映写技師」 「私は学生」 「俺は百姓だ」 「機関手」 「保険の外交員です」 「小学校の教員」 「化粧品店の店員でした」  めいめいが、自分の職業や身分を名乗った。どれも平凡な生活をしていたのだ。 「強いて共通点を探せば、あまり社会的地位のある者はおらんということだな」  老人が言った。俺はそのことに、何か意味がありはしないかと思った。 「何か特殊なものが共通しているために、他の人達のような出世ができなかったのかな」  だが、老人は俺の言葉を無視して続けた。 「不思議なのは我々の年齢だ。わし以外、ほとんどが若い人だ。幼い者はいない。老人もいない。中年もだ……。これにも意味がありそうだ」  食堂の入口のほうにいた、さっき保険の外交員だと名乗った男が言った。 「私らには何か特殊な性質があるのではないでしょうか。能力と言ったらいいか……。ですから、幼い者がいないと言うのは、その能力を持ってはいるが、それを生かしきるほど完成していないためで、中年や老年がいないのは、たくさんの普通の人間と協調して生きて行くため、自分でも知らない間にその能力が取り除かれてしまったか、或いはほかの人と同化してしまったためではないでしょうか」  その男の言葉を聞いていて、俺は各人めいめいが今度の問題を懸命に考えてきたことを感じた。 「どんな能力です。何かほかの人たちにできないことが、私たちにはできるのですか」  黒いシャツに黒のスラックスをはいた女が訊ねた。傍の男がその女の方を向いて、顎《あご》をしゃくりながら言った。 「ほら、例のあれだよ。君も聞えたと言ったじゃないか」 「みな、だいたいおなじ考えらしいな」  老人はそう言って、椅子《いす》の背にもたれかかったが、俺には何のことか、さっぱり判らなかった。 「あれが始まった時、わし達の何人かは誰かが呼んでいるのを聞いた」  四、五人が老人にうなずいて見せた。 「聞いたというより、そう思ったといったほうがぴったりくるわ」  黒シャツの女が答えた。 「テレパシーを、諸君は御存知かな。宇宙人はたしかにあれを使ったのだと思う。ほとんどの者は、その声、いや、テレパシーに服従して円盤に集合したのだと、わしは思う。宇宙人は混乱さえテレパシーで阻止し整理したらしい」  俺はこの仲間の内に、あの時の呼び声というのを聞いた者がいるのを知って、ちょっと意外だった。 「わし等の中にはそのテレパシーを、かすかに感じた者もいるが、服従してしまうほど強くは響かなかった。彼等の命令に対抗し得る、精神的な何かを持っているのかもしれんな」  なるほど、そう言われればある程度納得がいく。俺は生まれて初めて、平凡人ではないという感じを味わった。それと同時に、非凡な人間であるということは、何か今までよりもっと強い相手がどこかに隠れていることを意味しているような気がして不安に襲われた。 「すると、宇宙人という奴は、もう一度残った俺達に害を加えて来る気じゃないのかな」  逞しく日焼けした機関手が、俺の不安を的確に代弁してくれた。老人が大きくうなずいた。 「わし等はめいめい、遠く離れて孤立していた。だがここに集まった者が行動を起した時間は、南の者ほど早いのだ。全く順序よく、九州から東京まで、集まりながらやって来た。実によく連絡が取れている……。  わしは東京から西で、我々の仲間に加わり損なった者はおらんのではないかと思う。つまり、恐ろしいことだが、我々の集まったのも宇宙人の意志ではないかと思うのだ。ここの者以外に生存者はおらんのだ……」  俺は堪《たま》りかねて抗議した。 「生存者と呼ぶのは止めて下さい。みんな死んでしまったとは限らないでしょう」  老人は目玉をむいて俺を睨むと、叱るような口調で言った。 「死んだとは思わない。生きた人間が必要だからこそ連れ去ったのだ。だが、この地球から消え失せ、再び戻らん者をどうして生きているといえる。生きているだけで精神が完全に宇宙人に従属した者をどうして人間といえるのだ?」  返す言葉がなかった。 「じゃ、お父さんは、私達がこうして残っているのを、宇宙人はもう気づいているというのね」  娘が整った顔を曇らせて父親に訊ねた。 「そうとしか思えんだろう。あれからひと月。我々が互いに求め合ってここまでたどりついた過程には、あまりにも偶然が重なりすぎている。全部があの時、都市にいたか、またはその直後に都市にやって来て、申し合わせたように警察の無線を利用して仲間と連絡を取っている。最初に動いたのは、福岡にいた先生だ」  入口の近くにいる教員が、深刻な表情でうなずいた。 「先生は、何という理由もなくその日、本州へ向った」 「門司で俺と会ったんですよ。全くの偶然で、道路を歩いていたところを……」  漁船の機関手が言った。 「二人は広島へ行って警察の自動車をみつけ、サイレンを鳴らした」 「戦争が始まったのかと思って、しばらく逃げ廻ってしまったよ」  百姓と名乗った男が、頭を掻きながら答えた。老人は毅然《きぜん》とした態度になって、 「仲間がやって来るまで、誰も自分の土地を動こうとはしなかった。十人くらい集まった時、どこかへ住みつこうと考えてもよかったはずなのに。わし等はそうやって、何かに憑《つ》かれたように東京へ進んで来たのだ。そのことで、誰も自分達の行動を理由づけようとはしなかった。変じゃないか。わしは一ヶ月前の行進も、我々の行動も、同じ意味をもっているのではないかと怖れるのだ。集め残した者を、もう一回ひとところに集めて、連れ去ろうとしているのではないかと」  老人の言葉に耳を澄ませていた俺の頭に、未知への恐怖が急激に拡がっていった。見れば、誰の顔からも、それが読み取れた。     4  寝苦しい晩だった。  頭は異様に冴え返り、昼間の昂奮は朝まで醒めそうになかった。人間にめぐり逢えた嬉しさもあったが、それより、俺はあの老人の言葉が気になっていたのだ。  宇宙人が俺達を連れに来たら、何としてでも抵抗しなければならない。しかし、俺達の武器が彼等に通用するだろうか。いや、役にたつはずがない。俺達は彼等の思いのままになってしまうかもしれない。今だって、ひょっとしたらそうなっているのかも……。  だが、何としても自分の精神は、自分のものにして置きたい。もし最悪の時が来たら、その時こそ俺達は、この地球という星の代表者としての誇りをかけて、銃口を自分達に向けるべきなのだ。彼等のテレパシーから逃げ出す道は、それひとつしかないように思える。  それにしても、彼等はどこからやって来たのだろう。どんな姿をして、何のために俺達を征服しようと企んでいるのだろう。  俺は起き上ると窓を押しあけた。すっかり澄み切って、清潔な自然の香りを取り戻した東京の夜景が微かに肌《はだ》に当り、青白く冴えた月が輝いていた。  あの小さく光る星のどれかに、連れ去られた人々が生きているのかもしれない。そして今の俺と同じようにして星を眺め、星々の中から故郷を探そうとしているのかもしれない。もう一度地球に帰ることを神に祈っているかもしれない。  どこかの部屋で灯りがつけられ、中庭が急に明るくなった。ノックが聞えたのでドアをあけると、あの老人と娘が緊張した顔で立っていた。 「やっぱりあなたも起されたのね」  娘は俺が起きていたのを知って言った。 「別に……。ただちょっと寝苦しかったものだから」 「誰かに起されたのではないのか」  老人は疑うように念を押す。 「いいえ。第一、誰も来ませんよ」 「それでは、またわし達だけか」 「あの呼び声を、今また聞いたのよ」  娘はおびえていた。 「宇宙人……」  俺は恐る恐る、最悪の言葉を口にした。 「そうだ。やって来たらしい」  俺は急いで服を着ると、拳銃を調べた。 「何をする気だ。そんなものが彼等に通用すると思うのか」 「奴等には駄目でしょう。だが自分は殺せる。奴等に服従しない人間もいることを知らせてやるんだ。僕が自分の意志でなく歩きそうになったら、こうやりますよ」  俺は右手の拳銃を|顳※[#「需」+「頁」]《こめかみ》に当てがった。二人は俺の顔を凝視して動かなかった。 「あなたより、私の方が敗けるのはさきよ。だって、あなたに感じない声が、もう私には聞えてるんですもの」 「きみ、わし等を縛ってくれんか」  老人は意を決したように言った。俺はふたりの顔を見較べて、うなずいた。  階下からドヤドヤと足音がして、老人を呼んでいた。俺がかわりに大声で返事をすると、全員が俺の部屋の前へ集まった。みんな蒼白な表情だった。 「この前の呼び声を聞いた者は、動けぬよう縛ってもらえ。わし等は残された最後の人類だ。人類の名誉にかけて、彼等に屈服してはいけない。祖先の名誉にかけて……」  老人は興奮して、叫ぶように大声で言った。彼は襲いかかる宇宙人の意志と、懸命に闘っている様子だった。ほかの二、三人ももう宇宙人の呼びかけに魅せられたのか、あの、遠くを見る眼つきになって突っ立っている。  最初に宇宙人の呼び声を聞いた六人が紐《ひも》や電線でそこらへ縛りつけられた。彼等は既に茫然として、老人もその娘も、かたく縛りあげられながら、はるか遠くを見つめていた。  最後に、俺と逞ましい機関手の二人が残った。 「君も縛ろう」  俺はなるべく何気ない顔で彼に言った。 「あんたはどうする気だ。自分じゃ縛れないぞ」 「俺に考えがある。けっきょく誰かが残るんだ」  彼は少しためらってから、階段の四角い柱へ行って寄りかかった。 「逃げられないように、しっかり縛れよ」  機関手は俺が縛っていく手足を動かしてたしかめながら言った。縛り終えた俺は、機関手の正面に椅子を引きずって来て腰をおろした。そこここに、手足を堅く縛られた男女がころがっている。  俺はそれをゆっくりと眺めまわしてから、一挺の拳銃を、縛った電線の間から覗いている、機関手のてのひらに握らせた。  既に半数以上が意識を失っていた。 「俺がほどこうとしたり、どこかへ行こうとしたら、遠慮は要らない、射ち殺してくれ。俺は奴等の声とたたかってみる。もし敗けそうになったら、これで自殺するつもりだが」  俺はもうひとつの拳銃を手にして、奴等の声がきこえるのを待った。過ぎて行く一秒一秒が未知への恐怖に充ちていた。  俺は冷静でいるために、自制心を奮い立たせた。ポケットから煙草を出して火をつけた。 「吸うかい」  俺は眼の前の機関手に言った。 「有難う」  彼はそれきり黙って、俺がくわえさせた煙草を、うまそうにくゆらせた。口を開けば、いっそう恐怖がつのりそうだった。俺も黙りこんで、右手の拳銃を眺めていた。 「解いてくれ。宇宙人は無害なのだ。オイ、大丈夫だからわしを自由にしてくれ……」  老人の声が部屋のなかから聞えた。俺は機関手に目配せして、老人の様子を見に立ち上った。  駄目だ。眼がうつろなのだ。奴等に騙《だま》されている。奴等はますます強く呼びかけてきたのだ。  椅子へ戻って機関手の拳銃の射程へ入ろうとした俺は、愕然となった。機関手は、もう煙草を床に落していた。眼は遠くを見つめ、恍惚《こうこつ》とした表情だ。とうとう正気でいるのは俺ひとりになってしまった。 「おい。しっかりしろ。敗けちゃいけない」  俺は思わずその体をゆさぶった。彼の手から大きな音をたてて、拳銃が床にころがった。俺は一瞬、呆然として、落ちた拳銃を眺めた。  大丈夫、俺達は連れて行かれはしない。奴等は悪意を持ってはいないだろう。……俺の頭に、そうした宇宙人への好意が、漠然と浮きあがってきた。  ——なぜそんなことが判るのだ?——  俺は自問した。すると、すぐにその答が浮んだ。浮んだというよりは、聞いたというべきなのだろうか。  ——信じればよいのだ。君を騙したりしない——  ——誰だ。俺は何を考えているんだ——  ——われわれは君が宇宙人と呼んでいる者だ——  ——みんな連れて行った奴だな。だが、俺だけは敗けないぞ——  俺の頭の中では、自分ともうひとつ別な者の考えが入り混って、まるで誰かと、大声で喋っているようだった。  ——無理もないが、とにかく敵意を棄てるのだ——  相手の思考の中には、それだけの意味の外に、ずっと年下の弟に言い聞かせるような温かいものが感じられた。  俺は、その温か味に、かえって戸惑った。  ——しっかりしろ。奴等は俺を征服しようとしているのだ。自分を保て。いつもの俺を——  拗《す》ねたような、妙な反抗心が湧きあがり、俺はそう自分を励ました。すると相手の感情が急にきつくなり、突き離すように、  ——混乱することはない。君に話があるだけだ。連れて行きはしない——  と、いっそう強く、俺の思考に割り込んできた。  ——連れて行かないというのか——  ——勿論《もちろん》だ。われわれを信用しろ。すぐにすべてを説きあかす——  ——どうすればいい?——  ——君達と、もっと近くで話がしたい。複雑な内容を、遠くから理解する能力は、まだ君達にはないのだ。仲間を自由にしてやって、ここへ連れて来るんだ。縄を解いて——  ハッと気がつくと、俺はいつの間にか、機関手の縄の結び目に手を掛けていた。  ——いけない。奴等の思い通りになる——  俺は思わず二、三歩あとずさりした。  ——早く解け。われわれの話を聞きたくないのか。君達に贈り物があるのだ。そう、もっと指に力を入れて——  まるで子供扱いだった。おれは自分の意志を取り戻した。するとまったく奇妙な状態が起った。俺の頭の中で、まるで知らない者ふたりが、勝手にやりとりをはじめたのだ。  ——駄目じゃないか。彼等はそれほど子供じゃない。どれ、俺にやらせてみろ——  ——騙すのじゃないからよかろう——  ——駄目だ。彼は完全に混乱しているんだ。強引でもいいから判らせなければ——  つぎの瞬間、つよい思考の波が押し寄せた。  ——縄をほどけ。この強情っぱりめ——  俺はなぐられたようになった。あまりにも圧倒的なその命令に、頭が完全にきかなくなってしまった。  またふっと気を取り戻した時には、もう機関手の縄を、半分ほどきかけていた。  ——駄目だ——  俺は絶望し、床に落ちていた拳銃を素早く拾いあげ、こめかみにあてた。  ——やめろ。やめるんだ——  思考がさけんだ。  ——死なせてくれ。俺が最後の人間だ——  その時、はじめて俺は、積極的に相手に呼びかけた。そんなやり方ははじめてだが、全身の力が頭に集中したようだった。  ——その武器を棄てろ。おい、誰か手伝ってくれ。すごく手ごわい——  明らかに相手も全力を挙げているのが判った。さっきの、温かい思考が現われて、相手はふたりがかりになった。  ——棄てるんだ、それを。死んではならない——  ——くそ、負けないぞ——  俺は指に全身を籠め、引き金をひこうとした。  ——ザッキ。増幅一杯。奴は死ぬ気だ——  ——脳を破壊してしまいますよ——  ——いいから増幅しろ、ザッキ——  瞬間、頭が痺れた。  見えない者の意志が、強烈に俺の意志をひき裂いて、右腕はねじ曲ったまま引きさげられ、それにさからう俺の意志が引き金をひいた。  耳をつんざく轟音《ごうおん》とともに、俺はうしろの壁にたたきつけられ、床にころがった。自分を取り戻した俺は、ぼんやり自分の太腿《ふともも》から流れ出す血を見ていた。  ——さあ、起き上れ。痛くはない——  しばらくして感じたその思考は、微《かす》かに悔《くや》みの感情を伴っていた。  俺は太腿の激痛に思わず顔をしかめた。  ——信じろ。痛くはない。さあ、仲間を自由にしにゆくのだ——  また思考がひびいた。それは暗示だったのかもしれない。思わず動くと、今度は痛みは感じなかった。  何かこう、精一杯|撲《なぐ》り合った後のようなさっぱりした気分だった。  ——やっと判ってくれたな——  相手はすかさずそう考えた。俺は自発的に機関手の縄を解いた。機関手は嬉しそうに手足をもみほぐすと、すぐにあたりの仲間を解きにかかった。  縄を解かれた者は、手際良く次の者の縄をとき始め、やがて俺達は一団となってホテルを出た。  ——よし、彼等が来るぞ。脳波帽をつけて下船しよう——  一度、俺達には無関係なやり取りが、少しはしゃいだ感情といっしょに感じられた。  俺達は誰とも、一度も口をきかなかったが、行さきははっきり判っていた。皇居前の広場へ行くのだ。彼等はそこで待っている。  日比谷の交叉点を渡ると、暗い広場の松の間に、何とも不思議な照明を浴びて、例の球が見えた。この前見たのよりずっと小型だった。  その前に、五人の背の高い、スマートなスタイルの人間が、待っていた。不思議な照明とは月明りほどの明るさで、彼等を中心に、必要なだけの範囲が明るくなっていたからだった。  近づくと、五人はまったくすばらしい体格をしているのが判った。背が高く、ぴったりした衣服の胸のあたりが、逞ましく盛り上っている男達。顔だちも、まるでギリシャ彫刻のようなハンサムだ。  ——君か、怪我をしたのは——  一番年長らしい男が、俺の脚の血を見て、そう考えた。彼のかぶっている小さな帽子が、その時燐光のような光を発したので、それが判った。  ——手当てをしてやろう——  別の男が小函を持って俺に近づいた。  その小さな帽子——さっき彼等が脳波帽と考えたものらしい——は、かぶっている者が頭で話しかけるたびに、輪のような光を発した。……俺は宗教画に出てくる聖者達を思い出した。  函をあけた男は、立ったままの俺の傍へ軽く片ひざをつくと、函の中から何か堅い黒い物を取り出して、俺の傷口を丁寧にこすった。血は止まり、脚はすっきりとした。  ——いったい君らは何の権利があって、この地球の人間をさらって行ったのだ——  俺は全精神を集中して考えた。他の四人は一様に俺の方を向き、仲間から『主任』と呼ばれているらしい男が、大げさに顔をしかめた。そして俺たちに呼びかけた。  ——皆さんも、適当な場所に腰をおろして、私の話を聞いて下さい—— 『主任』はすこし強い考えで、丁寧にそう考えてよこした。皆が思い思いの場所に坐り込んだ。俺は強い好奇心に駆られて、彼を見守った。  だが『主任』は話し出すかわりに円盤をふりむいて、 「ザッキ。録音を聞かせてやってくれ」  と命令した。確かに俺の頭には、レコード盤のイメージを持った『録音』という観念が現われたが、何か少しそれとも違うような感じだった。『脳波』と『放出』という、二つの観念が同時に反応していた。  球の頂上から、何か白く光る細い物が突き出し、『ザッキ』らしい返事が、  ——準備よし——  と聞えた。  ——放出——  今度は完全に『放出』という言葉が、俺の頭の中で反応した。  たしかに、『放出』だった。言葉で喋るような一歩ずつの段階がなく、すべての謎の答が、俺の頭の中ヘ一度に飛び込んできた。決して忘れることのないほど強い印象で、記憶の深い部分にまで、その事柄が叩き込まれた。  彼等は銀河系外の宇宙から来た人間だった。歴史は古く、文明は、彼等の発生した一個の天体を中心に広く拡がっていた。彼等は四次元を征服しており、瞬時に数万光年を飛ぶこともできた。  だが、巨大な文明を維持するためには、厖大《ぼうだい》な労働力を必要とした。自分達とまったく同じ組織を持ち、必要に応じた能力……ある場合には彼等自身を上まわる能力……を持つ道具を完成した。いわば完全なアンドロイドだ。  そこで彼等は宇宙を探り、自分達がかつて発生したと同じ条件を持つ天体を見出し、そこに生命の種を播いた。  種は成長し、彼等はそれを育てた。限界まで稔《みの》って自分達の能力で自壊作用を起す寸前彼等はそれを収穫して帰った。  だが、彼等も予測できなかったわずかの手違いから、少数の変種ができてしまった。アンドロイド以上の、いわば本物の宇宙人と同等のものが。  彼等は協議し、その変種を自分達と同種の者と認め、彼等の法律を適用した。変種の自主的発展を許し対等の権利を与えるのだ。  ——それが君たちなのだ—— 『主任』が考えた。  ——今まで現われた円盤と呼ばれる物体は、やはりあなたがただったのか——  老人の思考らしいのがそう聞くのが、『主任』の思考を通して伝わってきた。  ——そうだ。君達が樹上生活をしていた頃も、単細胞だった頃も、我々は観察を続けてきたのですよ。一部を連れ去って成長の度合いを調べたり、不良品種が蔓延《はびこ》ると根絶したり、随分骨の折れる仕事だった。そう言えば、君達は不良種の根絶を記憶しているはずだ。あの時はたしか水を使ってやったと思うが——  ——ノアの洪水だ——  俺は咄嗟《とつさ》にそう思った。  ——そんな昔からなら、わたしたちと同じくらいの世代が交替しなければならなかったでしょうに—— 『主任』や、そのほかの四人は声をたてて笑った。彼等ははじめて音声を発したのだ。いわば『神々の笑い』だった。……笑いの思考を示す、青白い輪光を頭上に輝かせて。  ——僕等は時間を利用できる。君等がこの星の原始状態に植えられてから今日までを、僕等はそう長くない時間にしか感じないで育てて来た。君等の観念で言えば、農作物の種を播いてから収穫するくらいの時間だな。僕自身はいわばこの農園の管理主任さ——  俺は大声で、いや強い思考で訊ねた。  ——俺は平凡な人間だった。どうして俺が君達とおなじく優れているというのか、それを説明してくれ—— 『主任』は少しややこしい問題にぶつかったらしく、しばらく俺の追いつけないほどの速さで考えていたが、やがて真剣な顔になった。  ——君がわたしを優れているというのは、少し違っている。『放出』した通り、君もわたしも同じ素質なんだ——  ——だったら、あなたが『収穫』した者達は、俺より劣っていたのか?——  ——そうだ。彼等は『人間』でなくて『アンドロイド』なのだ。だからわたしたちの発する信号には全然無抵抗だし、わたしたちの考えた通りにしか行動できないのだ——  俺は少し焦れったくなった。  ——だって俺は平凡だったぜ。そのアンドロイド達の中に住んでいた時も——  ——計算機がいい例だ—— 『主任』の考えは飛躍した。  ——君らの社会にも計算機があった。計算機は君等の暗算より何万倍も早くなければ価値がない。早く計算する道具だからだ。はやく計算できるからと言って、道具は君より偉いかね——  それは俺にも呑み込めた。普通の連中は、アンドロイドだったのだ。だから少しずつ偏った能力を与えられていたのだ。俺が彼等を偉いと思ったり、優れていると思っていたのは、その偏った能力だけを見ていたからなのだ。  ——その通り。一馬力の機械は、十馬力の機械より、ずっと馬に似ているわけだ——  ——するとここに集まった俺達は、一番平凡な者ばかりなのか——  ——相対的な問題だ。飛べない僕等が、飛べる乗り物を設計する。だが、飛べる乗り物たちの社会では、飛べない僕等は見っともない片輪なんだ。君等は不幸にも、アンドロイドの社会で育ってしまったわけさ。だから最も平凡で、仲間もできにくいというわけなんだ——  ——じゃアンドロイドは、連れて行かれて、いまどうしているんだ?——  機関手が考えるだけでなく、声を出して言った。  ——機能を選別されて、めいめい適した仕事をしている。彼等は生まれて始めて理想的な状態に置かれたのだ。だから、もう幸とか不幸とかいうなやみから解放されてしまった。つまり、生きるべきところで生きているというわけだ——  ——悩みがなければ進歩できないのじゃありませんか——  ——その必要はない。彼等はただの道具だからだ。君等は違う。君等の進歩に限界はない——  ——今後、私達の進歩に助力してくれるのですか——  ——必要とあらば。だが、君達は若い—— 『若い』というのは、種族全体に対する観念だった。  ——われわれは、助けようと思えば助けられる。しかし、君等は自分達で運命をひらいていかなければならない。われわれの祖先がそうしたように——  ——主任——  球の中からザッキが叫んだ。  ——もう時間か——  ——はい—— 『主任』は、身ぶりで四人を円盤の下の方の扉へ行かせると、俺達のほうを向いてニッコリ笑った。善意に溢れた笑顔の上方に、輪光が輝いていた。  ——もう行く。君等の将来にはまだ無数の危険が待ちうけているが、君等もわれわれのように、それを乗り切って繁栄していくことを期待しているよ。 『主任』を最後にして、宇宙人たちは円盤にかくれて、球はたちまち銀光に輝いて舞い上った。  俺達はみな、立ち上ってそれに手を振った。円盤は夜空高く上昇すると、やがて橙色《だいだいいろ》の光の塊りとなり、細長い楕円《だえん》となって飛び去った。  俺は夜空を仰いで、円盤の消え去った後の星の瞬きを眺めていた。自分が彼等と対等の種族であることに誇りを持ち、生きることに猛烈な闘志を感じながら……。 「素晴らしい未来だ。俺達は今夜はじめて地球の主人になったのだ。そして明日はこの銀河系の主人になるのだ。そしていつかは、もう一度『主任』達とめぐり逢うのだ」  そうつぶやいて仲間を振り返ると、いつの間にか俺の横にあの美しい娘が立っていた。 「もしかすると、今度逢うのはあの星の上かもしれないわね」  彼女は星空を仰いだまま、俺にむかって言った。誰もが、見違えるように明るい表情で、俺のまわりに立っていた。 「ホテルへ戻って乾杯しようじゃないか」  機関手が言った。 「傷は大丈夫……?」  娘は俺が自分で射ち抜いた脚を、心配そうに覗きこんで訊ねた。 「全然痛くない」  そう返事をした俺は、傍にいる娘と機関手の肩を両手で引き寄せ、肩を組み合った。 「さあ行こう」  俺達は互いに肩を組み合い、一団となって月明りの広場を歩き出した。  彼等の収穫は終った。今度は俺達の番だった。  H氏のSF  その酒場はH氏お気に入りの場所らしく、まるでわが家のように振舞っていた。外は雨で、酒場は閑《ひま》だった。カウンターにいる客は私とH氏だけである。 「だいたいSFも読まん奴が、麻雀で勝てる筈がないだろう」 「そうですかね」 「そうさ、さっきのザマはナンだ。お前、いくら敗けた」 「三万八千点」 「ざまあみろ。少しはSFを読め」 「Hさんは、いくら勝ったんです」 「プラス七万二千。お前とは実力が違う」 「久し振りですね」 「嫌《いや》な野郎だな、お前は」 「どうせそうですよ」 「そうむくれるな。飲め」 「飲んでますよ」 「此処《ここ》のママ、美人だろう」 「美人ですね。Hさんの惚《ほ》れそうなタイプだな」 「馬鹿野郎。どんなタイプが好きか判ってたまるかい」 「想像と類推」 「生意気言うな。碌《ろく》にSFも読まんくせに」 「さっきからSF、SFって、一体SFって何です。空想科学小説なんていう説明で逃げないで下さいよ」 「よし。お前がSFをそんなに知りたけりゃ、よっく教えてやる」 「だからうかがおうじゃありませんか」 「俗物には判り易く、身近なもので説明するか」 「みぢか、って言うと」 「そうだな。男女関係なんかどうだい」 「ああ、エッチな話ですね」 「馬鹿野郎。男女関係がどうしてエッチだ」 「あのね、Hさん、馬鹿野郎、馬鹿野郎ってさっきから随分おっしゃるけど、言われて嫌だからというわけじゃないんですが、余りいいもんじゃないですよ。悪い口癖だな」 「すまん、すまん。酔うとどうもね。第一みっともないな。でも口癖なんだ」 「直しなさい」 「バ。いや、口癖なんだ。かまわんだろ。俺とお前の仲じゃないか。おーれとおーまーえーわあ、どおきのさーくーらあ」 「男女関係はどうなったんです」 「それそれ。女がいる、男がいる。どうだ」 「どうだって」 「そのほかに何かいるか」 「オカマ」 「バ。あれは男だ。な、おらんだろう。結婚するのは女と男。子供の親も女と男。バスの車掌も女か男かのどっちかだ」 「今飲んでるのは男と男」 「下らん。な、女と男だらけでほかになんにもありゃしない。これがSFだ」 「これがSFだ。どっかで聞いた文句だな」 「そうさ。これがSFさ。世の中は女と男の二種類しかなくて誰もそれを不思議がらない」 「いないものはしょうがないでしょう」 「たしかにいない。しかし、もしこの世の中にセックスが三つあったらどうなる。四つあったら。五つあったら。六つあったら」 「いくつまで言うつもりです。百以上言うんなら、ひとねいりしたいんですが」 「馬鹿野郎。黙って聞け」 「黙って聞いていると、聞いた気がしないんです」 「お前、学校の成績が悪かったろう。な、これがSFだ。先ず仮説をひとつ立てる。その仮説の穴から世界を覗いてみる。どうだ面白いだろう。お前も覗け」 「見えた見えた。うふっ、ヌードでやがら」 「どれどれ、だなんて。少しまじめにいこう。まじめに。な、だから仮説をひとつたてる」 「どんな」 「そうだな。この場合、仮りにセックスが世の中に四つあったとする」 「四つも」 「そう四つ。我々はオンナ、オトコの二つの言葉しか持っていない。だから、残るふたつのセックスを、ンナとトコにする」 「ンナ、トコ。お抜きですね」 「オンナ、オトコ、ンナ、トコの四つだ。この四つが揃わんと性行為は成立しない」 「そんな無茶な」 「何が無茶だ」 「二人でさえ気が揃いにくいのに」 「それはお前が未熟だからだ。性に関するすべてが四つだ。恋愛するのも四人ひと組、結婚するのも四人ひと組」 「ちょっと待った。そいつは随分ややこしくなってきたぞ。じゃ、色気づいて異性を口説きたくなったら、三人口説かないと想いは遂げられない訳ですね」 「そう。しかし自然はうまくしたもので、オトコが色気づくとオンナとンナとトコの三人が恋しくなるように出来とる。オンナだけが恋しくなるのは精神に欠陥のある証拠だな。これを称してヘンタイと言う」 「つまりエッチ」 「健全な人間は常に三種類の異性を平等に欲する」 「好きな三人がいて、三人ともに振られたときは、四分の一想いってわけですね」 「そう」 「運良く結婚式までこぎつけると、その結婚式ってのは相当盛大なもんですね」 「どうして」 「だって、当事者、新郎新婦たちが四人でしょ。その両親、じゃなかった四親が四組で、四、四の十六人。なこうど夫妻が四人。それだけの、ごく内輪の式でも二十四人になっちまう」 「そらみろ、面白いだろう。もうSFが始まってるんだ」 「僕がオトコだったと仮定してオンナとンナとトコをうまく集めたとしますよ」 「仮定でもお前がオンナになれるもんか」 「トコとンナは幸い僕との結婚に同意してくれたけど、オンナには他に好きなオトコがいる」 「そしてそのオンナは、お前の集めたンナとトコには心底惚れている」 「悲劇だな。ンナとトコは僕以外との結婚など考えられない」 「じゃ、別なオンナを探せばいい」 「もたもたしてる内に、ンナの奴が別なグループに浮気しちまった」 「お前とトコは二人でさめざめと泣く」 「嘆いた挙句に悲観して二人で心中」 「ちょっと待った。心中ってのは四人でするもんだ」 「すると、ふたり自殺」 「だな」 「ねえ。肝心な時はどうなんです。四人めでたく揃った時は」 「お前、まだ知らんのか。童貞だな」 「教えて下さいよ。胸がドキドキして来た」 「四人だから、こう、輪になるな」 「はい。輪になりました」 「それぞれがプラスとマイナスを備えておる」 「どの辺とどの辺です」 「こことここだ。な、うまく行くだろう」 「相当大きなべッドが要りますね」 「たった二人でさえ御存知の通りなんだから、クヮルテットの快楽なんてものは、お前」 「それでどうなるんです。全然触れ合わないのが一人出来ちゃうけど」 「しかし両隣りはちゃんと触れ合っている。だからお前は触れていない奴の反応だって、はっきり知ることが出来る」 「成る程」 「ここに我々二性人類との差があるんだ」 「四性人類ってのは、どういう風になるんです」 「四性の場合には二性と違って無理が効かん。つまり、一人が完了してしまうと、残った三人の性感は、それを通じてお互いの感覚を知り合っていただけに、いちじるしく阻害されてしまうんだ」 「すると早い者勝ち」 「ま、原則的にはそういうことになる。それは二性人だって同じことが言えるじゃないか。しかし、より深い快楽を求めた場合には、それをもっと、ギリギリのところまで追いあげてからにする。四性の場合だって同じことが言えるだろう。ただ問題は、いつも誰かが、置いて行かれなければならないということだ。だから四性の場合には、その追いあげかたも二性ほど寛大ではないんだ」 「二性人類よりは、もっと露骨に先を競うということですか」 「そうなるね」 「世智辛いな。一番乗りを争うなんてのは、ムードがないや」 「しかし、これが厳粛なる事実だ。四性社会では結構それで楽しんでるよ」 「すると僕みたいな未熟者は、いつまでたっても置いてけ堀のヒステリー野郎ですね」 「今だってそうじゃないか。でもな、何とかなるよ。その為のベッド・マナーってものがやかましいから」 「どんなルールです」 「その感じになって来たら、三人に対してその旨を告げなければならない」 「ほかのがモタモタしてるうちに、一番さきそれを言えたら、ちょっとした征服感ですね」 「お前のおむかいさんは、まだまだみたいな顔をしてる」 「良いですねえ。二性人類には味わえない喜びだ」 「と思ったその瞬間。お向うさんがおさきに失礼、てなもんでさっさと」 「ひどいや。ポーカー・フェイスを使うなんて、マナーに反するじゃないですか」 「この道は厳しいさ。何しろアがれるのは一人っきりなんだから。それからね。宣告なしでアがっちまうのは、四性社会の俗語で、ヤミテンというんだ。覚えとけよ」  傍にいた美人の、しかし麻雀を知らないマダムは、キョトンとしてH氏の馬鹿笑いをみつめていた。  虚空の男  私が広告代理店で、小ぜわしいCMづくりに追いまわされていた頃のことである。  Pレーヨンの宣伝部から、私に突然個人的な呼び出しがあった。Pレーヨンは半期十億円にのぼる広告費を支出する日本有数の大広告主だが、私の会社は歴史も浅く、まだ取引をするには至っていなかった。  当時私は企画制作部の次長になったばかりで、それ以前も営業活動とはあまりかかわりがなく、Pレーヨンから名ざしで呼び出しを受ける心当りもなかったから、留守中連絡を受けた部下に、何かの間違いではないのかと訊《たず》ねて見たが、先方はたしかに私の名を言ったという。  小首を傾げながら、指定された時間に京橋のPレーヨン本社へ行くと、五十がらみの体格のいい人物が現われた。交換した名刺を見ると前田卯一郎とあり、肩書きは常務になっていた。重厚な感じの応接間で、少々気押されながら用件を訊ねると、前田常務は急に親し気な笑顔を見せて、私の妻のことを聞いた。元気だと答えると、今度は子供が生まれたそうで目出度い、と悪戯《いたずら》っぽい目で言う。狐につままれたようで、中途半端な返事をすると大声で笑い出し、実は君と僕は親類なんだと種あかしをした。  私の妻は九州の博多生まれで、四人姉妹の末っ子である。その姉の一人が養女に出されて、今は博多の博山閣というホテルの幸福な若奥様になっている。前田常務はその夫に当る人の叔父だそうで、最近九州出張で博山閣へ泊った時、東京の広告代理店に勤めているという私の噂《うわさ》を聞いたらしい。 「そうでしたか、ちっとも存じませんで」  私も頭を掻《か》いて笑って見せたが、内心とびたつ思いだった。何しろ超弩級《ちようどきゆう》のスポンサーである。こんな頼もしいコネはまたとない。 「博山閣で君のことを頼まれたからというわけではないが、ウチヘ食いこむいいチャンスだと思ってね」  前田常務はそう言って部外秘の情報を洩らしてくれた。  どこの会社でもそうだが、とりわけPレーヨンは宣伝の戦略上デザイン・ポリシーということにやかましい。そのポリシーを大転換させる計画が進行中だと言うのだ。理由は長年守って来たPレーヨンの行き方に、他の会社が右へならえをしてしまい、最近では独自性がなくなったばかりか、偶然にせよ企画を先行されてしまう事態も生じている。だが一度踏み切ったら四、五年は続けなければならないものだから、なかなかこれという結論が出ないで困っているところで、それだけによい案を提出してくれればチャンスは充分にあるというのだ。  話のあい間にさり気なく挙げるデザイナーやカメラマンなどの名前も、ぴしっと壺にはまっていて、この人物が宣伝のスペシャリストであることは疑問の余地がなかった。  これは思ったより大きなヤマにぶつかったのだぞ。——私は自分に言い聞かせ、この時ばかりは見栄も外聞もなく、お願いしますぜひやらせて下さいの一点張りで辞去した。  社へ戻って営業部長と企画課、制作課の主だった連中に非常呼集をかけ、厳重に箝口令《かんこうれい》をしいてから問題をあかすと、みな昂奮《こうふん》し勇み立った。気の早い営業部長などは、算盤《そろばん》を持ち出して皮算用を始めるしまつで、それくらいPレーヨンは我々に取って夢のような存在だった。  検討して見ると、前田常務は試案提出と軽く言ったが、ことはシネスコの劇場用カラーフィルムからラベルの端に至る幅の広い問題である。プレゼンテーションの費用だけで、どのくらい掛るか見当もつかない。提出の仕方だって、相手がPレーヨンでは薄見っともないやり方はできない。作品を全部カラースライドにして、説明用のオーデオ・テープをつけるくらいのことはする必要がある。——などと、ドサ廻りの一座が歌舞伎座へ出る時のような騒ぎだ。  企画会議の大勢は、この道の有能なタレントを数多く集めて試作班を臨時に編成し、あらゆる角度からこの問題を煮つめていこうと言うことになった。——それに反対の意見を示したのは私だけだった。  そんな正攻法はとっくにPレーヨン内部で始めているに違いない。タレント集めだって、我々よりPレーヨンのほうがよほど幅広く行うだろうし、第一超一流広告主の呼びかけなら、どんな忙がしい人物だって飛びついていくだろう。我々はその点で遥かに劣っている。それより、この際は一人か二人の若く優れたタレントの持味を前面に押し出そうではないか。Pレーヨンが求めているのは表現上の偏《かたよ》りで、平均化ではないはずなのだから。  そう言うと、出席者の中には、また一発屋がはじまったなどと笑い出す者もいる。だが私には自分の社をPレーヨンの宣伝部と較べた際、どれほど非力であるかがよく判っていた。自分たちの非力を認めるのはみじめだが、その上に立ってチャンスを生かそうとする時、一発屋もまた止むを得まいと信じた。  激論になって、途中から出席した社長が二本だての予算を認め、やっとけりがついた。だが十対一の攻撃を浴びた私は無性《むしよう》に腹が立ち、なんとしてでもこの一発をモノにして、企画責任者の実力を思い知らせてやらなければ納まらない心理になっていた。  Pレーヨンヘの道も自分がつけた。これがうまくいけばいやでも支配力が強まる。一気に重役の椅子《いす》へ駆け登るか——。会議で部下たちから受けた圧迫感は、反動的に野心を掻きたてた。  その時ふと私の頭をひとつの名前が横切った。伊丹英一——そうだ、あの男さえいてくれれば。私はそう思うと慌《あわ》ててデスクに戻り、受話器を手でかこうようにして、彼の所在を訊ねはじめた。  伊丹英一。その名は商業美術に関係する者なら誰でも覚えているだろう。つい三年ほど前まで、青山通りに面したビルに伊丹デザイン工房というオフィスを構え、戦前は京藤財閥と呼ばれた東日グループ三十数社の広告表現を一手に預り、派手な仕事ぶりを見せていたデザイナーである。  洋画家を志していた伊丹と作家志望だった私とは、同じようにアルバイトとして広告業界に首を突っこみ、駆け出しの頃私のコピーと彼のイラストが組んで、何度も一緒に仕事をしたものである。その後私は広告代理店に入り、彼はフリーを続けたあと、突然手品のようにあの大きなデザイン工房のあるじになったのだが、派手な活躍は数年間のことで、やはり突然この社会から姿を消したのだった。その伊丹がいてくれたら——。彼のタッチがPレーヨンの求めているイメージにぴったりなのを思うと、私はいても立ってもいられないもどかしさを感じた。  だが彼の所在は一向に判らない。商売柄デザイナー、カメラマン、コピーライターなどから、モデル、写植屋に至るまで、たいていの電話番号は私の手帳に載っているのだが、伊丹と関係のあった者を片はしから訊ねても、行方を知っている者は一人もいない。  私がのべつまくなしに電話をしていると、ハウスオーガンの編集を担当している若いのが、伊丹さんなら二、三日前に新宿の伊勢丹で見掛けましたよ、と言った。言葉は交さなかったが、ひどくよれよれの恰好でエスカレーターを降りて行ったのだという。  気がついて新聞の綴じ込みを引っくり返すと、伊勢丹の広告の中に、小さく陽美会展の開催が告げられている。私はすぐに陽美会の事務所へ連絡した。陽美会のリーダーは白木寧郎画伯で、伊丹は画学生時代白木画伯に師事していたはずであった。  新宿区西大久保二丁目。伊丹の住所は陽美会が知っていた。  それは歌舞伎町の映画街の裏手に当り、私がそのあたりへ着いたのは、午後の五時半頃だった。駅前の高野の洋酒売場で、彼が最高の酒と讃えていたカティーサークを一瓶《ひとびん》買い、九月はじめの暑い西陽の中を歩いて行った。  番地の見当をつけるため、びっしりとアパートの建てこんだ一角を睨んでいると、濃い化粧をした女たちがひっきりなしに路地から出て来る。新宿の夜の人種のべッドタウンなのだ。巽荘《たつみそう》というアパートは、そのまん中の軽四輪も通りかねる狭い路地の奥にあって、やっと探し当てた時の私は、汗びっしょりになっていた。  陽当りの悪そうな部屋のドアに、見覚えのある字で伊丹の名が書かれていた。ノックをするとだいぶ経ってからドアが開き、家人の留守中に客を迎えた高校生のように、不細工な態度で伊丹が立っていた。 「ずいぶん探したぞ」  そう言うと、「うん」とだけ答えた。商業美術雑誌に毎号名をつらね、前衛的な発言をしていた男の面影はなく、貧乏絵描きの昔に帰っている。 「上ってもいいか。話があって来たんだ」  私が押し入るように靴を脱ぎかけると、無感動に、「こっちだ」と言ってさっさと奥の部屋へ消えた。そのあとに続きながら、左手の台所の様子などを見ると、小奇麗にかたづいていて、おもちゃのようなポリバケツの中に、固く絞った雑巾が律気そうに納まっている。女と暮しているのは一目瞭然だった。 「話って何だ」 「引っ張り出しに来たよ」 「グラフィックの仕事なら駄目だぞ。今の俺は油絵《アブラ》しかやらない」 「どういうわけなんだ。何かあったのか」 「あった。だがどうせ判ってもらえないのだから説明はしない。とにかくアブラ一本槍にきめたんだ。誘わないでくれ」 「そんなもったいない。その腕があれば何だって思いのままじゃないか。第一俺はそっちを引っ張り出すことに賭《か》けているんだ。ウンと言うまでは帰らないからそのつもりでいろ」  そう言うと、伊丹は二人の真ん中へ灰皿を置き、長い指でいこいに火をつけ、深々と吸いこんだ煙を吐き出してから、苦そうな笑いで唇を歪めた。 「次長になったそうだな」  やはりどこかで昔の仲間と繋《つな》がっているのだろう。そんなことも知っていた。 「率直に言おう。この仕事は俺の次の段階への足がかりだ。力をかしてくれ」 「社長になる気じゃないだろうな」 「それほどの野心は持っていない」 「今に持つさ」 「俺も所帯を持ったし、子供もできた。少しでも世の中を這《は》い上がって人並みの暮らしをさせてやりたい」 「今のままでは人並みじゃないのか。よせよせ、人間行ける所までしか行けやしない。それより自分の持って生まれた分をわきまえて、その中で人生を充実させたほうがいいにきまっている」  そんなことを言い、とにかく断わるの一点張りで仕事の内容を聞こうともしない。Pレーヨン相手の大仕事だと言って見ても、色気を出す素振りさえないのだ。  私は頑固にねばって、一時間半ほども押問答が続いた。さすがに伊丹は辟易《へきえき》したらしく、私の持ってきた四角い紙包みに目を転じて、 「それはカティーサークじゃないのか。いやそうにきまっている。お前はそんなことに気が利く奴だから」  と話題をそらせた。私はつい調子にのって、 「もちろんカティーサークだが、高い酒をタダで飲ませるわけにはいかない。飲みたかったらウンと言え」  と言ってしまった。 「馬鹿にするな」  とたんに伊丹の罵声が飛んだ。「貧乏は好きでしてるんだ。酒が惜しけりゃとっとと帰りやがれ」  そう言って荒々しく煙草をふかす。私は沈黙するよりなかった。 「痩《や》せても枯れても伊丹英一、三流会社の次長などに舐《な》められてたまるか」  形にはまった啖呵《たんか》だが、目を見ると笑っている。私は彼の十八番《おはこ》を忘れていたのだ。使い古したテで主導権を握られてしまった。気がついて、笑っている目と睨み合っていると、どちらからとなく笑声をあげた。     * 「俺が断る理由を聞きたいか」 「聞きたい」 「これは同時にお前への心づかいでもある。だいたいお前は次長すら荷が勝ちすぎている。この上Pレーヨンでも背負いこんで見ろ、自滅だ」 「そうかな」 「多少馬鹿でも組織の中で強い人間もいれば、その逆のタイプの人間もいるものだ。お前は今組織の中にいるから、その中でしか物が見えないのだ。自分の本質をよく考えて見るがいい。小説を書くことより上の才能がお前のどこにあるんだ」 「作家でモノになれるだけの才能かな」 「作家になれるかどうかは別問題だ。しかし自分の持ち分に賭けるのが一番いいことだろう。自分の取り柄が世間で通用しないんだったら、何をやったって駄目さ。それなのにお前は近頃小説を書かないらしい。どういうつもりなんだ」 「なるほど。それでお前はアブラ一本にきめたのか」 「まあそうだ。だがキッカケがあった。世の中の誰もが気づかないたいへんな秘密を覗いた」 「大げさな言い方をするな」 「これでも内輪に言ってるつもりだ。俺は静岡事故の時それを知った」  飲みながら、しだいに廻って来る酔と共に、伊丹は熱っぽい調子で語りはじめた。  四年前の夏、東海道線静岡駅の近くで大きな事故があった。東京駅十一時十分発の鹿児島行き急行〈あおしま〉が、静岡を出て安倍川の鉄橋を渡ってすぐ、原因不明の脱線転覆をし、四十名近い死者と百数十名の負傷者を出した。  現場は東日油化という会社の静岡工場のまん前で、事故発生時刻は午後一時五十七分ということである。  伊丹はその日現場のすぐ近くにいた。東日油化の会社案内を作るため、カメラマンやモデルなど数人のスタッフを連れて工場撮影に行っていたのだ。空中撮影のためのヘリコプターもチャーターし、事故のあった時刻には場外着地点である近くの浜辺でヘリを待っていたという。正規の飛行場以外の着地はいちいち届け出て許可を得なければならない。工場敷地内では、国鉄の線路に近すぎて認可にならなかったのだ。  大きな衝突音を聞いて、スタッフ一同は工場に駆け戻ったが、伊丹とヘリに乗るカメラマンの一人は、舞い降りるヘリを見上げて動くわけにはいかなかった。ヘリが着くと、遊び半分に便乗して来た京藤謙介と姪の折賀令子が降り、列車事故らしいと告げた。するとカメラマンは、一生一度の決定的瞬間だと言って、パイロットをせかせて一人だけで舞い上ってしまった。事故直後からの現場を克明に記録したあの時の報道写真は、こうして伊丹たちの手で作られたのだった。  予定外のカメラマンの行動に、トランシーバーで怒鳴り合っていた伊丹たちが、諦めて浜辺から去ろうとしたのは、したがって事故発生からだいぶ経った頃である。 「その時俺は四次元の空間を見たんだ。いや正確には何次元だか知らないが、とにかく我々の次元のものではないものを見たんだ」  伊丹はそう言うと遠くを眺《なが》めるように目を宙に据え、しばらく自分だけの物想いに耽《ふけ》った。 「あれさえ見なかったら、俺はあの京藤財閥の一門につながり、折賀令子と結婚して、生まれついての金持ち連中を相手に這いつくばって暮していただろうな」  その言葉には、抜きさしならぬ実感が籠められている。 「京藤謙介って、あの京藤謙介か」 「そうだ。あの京藤謙介だ」  それはあまりにも有名な財界の青年紳士で、日本には珍らしい国際級のプレイボーイだ。 「するとお前が青山の工房をやったのは」 「彼がうしろにいた。何もかもお膳立てしてくれて、俺はそれを食いかけたんだ」 「なんでまたそんな関係になったんだ」 「令子さ。美人で利口で物凄い浪費家さ。あれは京藤一門の余り者で、謙介氏が物好きに後見人を買って出てたんだ。あのビルは謙介旦那の持物だったそうだよ。下手の横好きで絵を書く令子に、謙介氏はデザイナーの看板を買ってやったんだろう。ついでに亭主もな」 「そういうわけだったのか。で、その四次元というのは」 「虚空の男さ。どこか得体の知れないところへ、空いっぱいに膨らんで落ちて行ったんだ。まるで悪夢のワン・カットのようだった」  伊丹が見たものは、空いっぱいにひろがった男の姿だった。左側は海、右側は焼津から御前崎に続く海岸線という彼の視野いっぱいに、頭を海に向けて横たわっていた。額のあたりからは鮮血が流れ出て、衣服や掌を不吉な色に染めていた。はじめ静止しているように見えたが、こちらに向って突き出された両の手は、何かを掴《つか》もうとするように指を曲げ、顔は刻々と驚愕の表情を深め、声こそ聞えないが、大きく開かれた口は、最後の悲鳴をあげているとしか見えなかった。青っぽい背広にネクタイを締めた物堅い風体のその男は、上になった左足を奇妙な形で後方へ跳《は》ねあげ、右の靴の爪さきは、遥か西につらなる山なみのあたりへ喰いこんでいる。伊丹と京藤謙介と折賀令子の三人は、西の空を見あげたまま、砂浜に立ちつくしていた。  虚空の男は、高速度撮影のフィルムを見るように、極めてゆっくりと体を動かしながら、次第に頭を下にさげ回転していった。同時に全体の大きさが収縮をはじめ、ちょうど奈落へ回りながら転落していくような具合に、伊丹たちから遠のいていくようだった。が、その虚空の像は急に何とも言いようのない歪み方をしはじめ、やがて宙天の一角に折れ目があったかのように、腰のあたりからガクリと二つに折れ、今度はその折れ目へ吸いこまれていった。最後は靴と頭がくっついてひとつの点になり、すうっと消えた。——消えたあとには、夏の見るからに健康そうな青い空と、何の変哲もない海辺の風景が、まるで伊丹たちを馬鹿にするように残っていた。  三人はしばらく言葉も出ず、目をしばたたいてお互いの顔を見合わせるのも、だいぶ経ってからという始末だった。 「何でしょう」  と伊丹は言い、京藤謙介も姪の令子の肩をかばうように抱き寄せて、 「あれは何だったろう」  とおぞまし気な表情をするばかりだ。気分がいくらか落ち着きはじめると、三人は言い合わせたように工場のほうを振り返った。すぐその先で起ったらしい惨事と今の不吉な虚空の男が、何の理由もなく結びついた。  駆けつけて見ると、東日油化の塀《へい》ぞいに道ひとつへだてて走っている国鉄の線路で、下り列車がこちらへ車軸を見せて横転している。先頭の機関車は線路下へ蛇の鎌首のようにたれさがり、ジグザグに折れた客車の列の二輛目あたりに、赤茶色に塗った上りの電車のさきが乗りあげている。怒号と悲鳴の中を、いち早くとび出した東日油化の従業員の白い作業着が、横転した車輛の上に点々と並び、這い出して来る乗客たちに手をかしていた。  これが静岡事故発生直後に伊丹の見た現場の様子である。やがて静岡市内から救急車やパトカーが雲集し、救援列車も着いて、東日油化のよく手入れされた前庭や、線路下の専用道路などは、血まみれの遭難者で溢《あふ》れ返り、サイレンの音がひっきりなしに響き渡った。  騒ぎの中で、伊丹たちはあの虚空の男の怪現象を見なかったかと訊ねて廻ったが、誰一人見たと言う者はいず、かえってこの非常事態の中で妙なことを言い歩く伊丹たちを、うさん臭そうに睨みつけるばかりだ。  国鉄の職員たちや、警察、消防団ら本職の手が揃《そろ》って、救助活動も本格的になりはじめると、伊丹たちは工場へ戻った。まだ昂奮して声高に事故のことを語り合っているスタッフに、伊丹は引揚げを命じた。  自分も帰るつもりでいると、京藤謙介がそれはならんと止めた。あとの仕事の手筈もあり、一刻も早く東京へ戻りたいのだが、京藤謙介は虚空の男のことが納得ゆくまで、この土地は離れられないと言う。  すべてを握っている権力者の言うことだけに、伊丹も強くは抗せず、自分もその件には好奇心がうずいているところだから、言いなりにスタッフと別れ、東日油化の首脳が馴染みにしている市内の料亭へ入った。  調べると言っても、おいそれと他の目撃者が見つかりそうもなく、伊丹は京藤謙介の顔色ばかり窺っていた。 「と言うのは——」  伊丹は空になったグラスにカティーサークを注ぎながら、そう言って唇を舐めた。「謙介旦那とじっくりつき合うのは、その時が最初だったからだ。ある仕事で識り合ってから急に親しくなった令子が、俺にオフィスを持って見ないかとすすめた頃は、謙介のケの字も俺は知らなかった。名義も何も、会社はすべて令子のもので、看板だけが俺の名前。——まあ言って見れば傭われマスターのような身分なんだ。それでもいい仕事ができそうだから、俺は喜んであの会社に精を出した。そのうちだんだん仕掛けが判ってくる。要は両親のない、京藤一族の余り者みたいな令子が、好きなデザインの途でしかるべく活動できればいい。その背後で全面的に面倒を見ているのが京藤謙介という大金持の叔父貴——と、こういうことになっているんだ。それまでにも三、四度は顔を合わせたが、ヘンに忙がしい男でものの三十分と話したことはなかった」 「その令子っていう女とはどうだったんだ」  私が訊ねると、伊丹は何のてらいもなく、 「早くにできてた。美人だし、俺を買いかぶり過ぎるぐらいに扱ってたから、そうならないほうがおかしい。——しかし妙なもんだ。当節色の生っ白いのは貧乏人で、本物の金持ちはこんがりと陽焼けしてやがる。令子は冬でも小麦色に焼けた肌をしていて、それがお前、水着の跡もないんだ。利巧だが物識りと言うんじゃなく、キャッチボールのように、こっちが投げかける話題を面白おかしく投げ返す術にたけていた。勝気で少々乱暴なぐらいの身のこなし、美人でグラマーで、セックスも男のような愉しみ方をする奴だった。俺はそんな令子を所有したことに有頂天になり、仕事も派手にやれて仲間からも一目置かれるようだったから、この生活を失ってはと、令子の背後にいる謙介旦那には、卑屈なほど気を使った」  伊丹の思い出ばなしに、私も当時を思い浮べ、彼の羽振りをさんざん羨《うらや》ましがっただけに、その立場がよく判るような気がした。  その日、八月九日の夕刊は、各紙とも第一面に静岡事故を報じ、社会面も血の香が匂いたつような烈しい字句で埋まっていた。しかし、あの虚空の男に関しては何もなかった。  床の間を背に、ありったけの新聞を取り寄せて調べていた謙介氏が、急におお、と声をあげた。伊丹が機嫌《きげん》をとるように、 「ありましたか」  と言うと、謙介氏はあったあったと喜色満面で新聞を大きく拡げた。  地元のS新報という新聞で、事故発生時刻に怪現象——と小さく扱っていた。記事に依ると、S新報の望月という記者が、事故現場から約六キロ北のK村附近をバイクで走行中、やはり西の空に怪我をした男の姿を目撃したが数瞬で消滅したとあり、他にも二、三同種の報告が入っているということだった。記事の結びは、原因について目下究明中となっている。  謙介氏は部屋の電話で帳場を呼び出しS新報に連絡させた。  帳場が京藤の名を出したのだろう。十五分もしないうちに、ドタドタとS新報の望月という男がやって来て、自分の見たことや、他の目撃者の話を聞かせた。連絡して来たのは全部で六人いて、どれもほぼ似たような具合だったが、虚空の男の滞空時間については、かなり差異があった。  望月の場合は、頭を海側にしたまま動かずに大きいまま消えたと言い、見た時はすでに回転をしていたと言う者や、背後から頭上を通りすぎて西へ向ったようだったと述べる者もあった。 「他の社へ連絡して取りあげられないままのもあるでしょうし、連絡しなかった者もたくさんいるでしょう。明日になればもっと探し出しますが」  望月はそう言った。 「それからふた晩、俺たちは静岡市内に居残ってしまった。納期の迫った仕事を幾つも抱えてこっちはじりじりしているのに、謙介旦那も令子も虚空の男に夢中なんだ。——だいたいああいう連中が忙がしがっているのは、本当は上っ面だけなんだな。自分の都合で予定なんかいつ抛《ほう》り出してもいい。三日目に帰る時だって、俺のために引きあげるみたいなことを言うんだ。目撃者のほうはというと、まるで増えない。望月は必死になって動き廻るが、てんで見つからないんだ。それで奴さんすっかり恐縮しちまったんだが、旦那は別れぎわご苦労代に相当なものを渡して、続けて調べてくれと頼んだらしかった」 「血を流してたと言ったな」 「うん。怪我をしてたらしい」 「事故と関係があるな」 「俺たちもそれには確信があった。しかし証拠も何もありはしない。第一それが誰なのかも判らなかった。——そのことがあってから、謙介旦那はちょくちょく青山へ顔を出すようになった。デザインの仕事にも興味が出たらしく、スタジオを覗いたりしていた。俺もだんだん親しくなって、この分なら俺の人生もまんざらじゃないなどと思ったもんだ。するとある日、珍らしく昂奮した謙介旦那がとびこんで来て、俺と令子の前へ一枚の地図を拡げたんだ。あのあたりの五万分の一で、赤い点が書きこんであったよ」  赤い点は六人、望月と伊丹たちを入れて合計八つの目撃地点だった。一番海に近いのが伊丹たちの場所で、一番山側はGと呼ばれる山の上だった。その二点を結ぶと、事故現場を含めてすべての点がほぼ一直線上に並ぶ。 「どうだ。この意味が判るか」  謙介氏は得意気に言った。「あれを見ることができた地点は、この線の上だけなんだ。望月君がバイクで走行中だったということから考えて、おそらく幅百メートルそこそこの帯状をしていたに違いない。そこを走り抜けたから、彼はあの現象のはじめの部分しか見れなかったわけだ。頭上を通り越してという目撃例は、この百メートルの帯のギリギリ東側にいたに違いない。僕らはちょうどそのまん中あたりかな」  伊丹は謙介氏の推理に感心しながら、その地図を丹念に調べた。 「事故のあった地点が、少しはずれてやしませんか。この地図だと少しさきの畑の中を通ることになりますよ」 「そうかな。違うだろう」謙介氏が心外そうな表情になったので、伊丹は慌ててその場をとりつくろった。  それから数日後、望月から報告を受けた謙介氏は、青山へやって来るといきなり伊丹と令子に静岡へ同行を命じた。 「そうホイホイとは行けないよ。何しろ仕事は山ほどあるんだ。今度ばかりは俺も強く断った。だが断ると謙介旦那は鼻のさきで笑って、そんな仕事はあとでいくらでもやるから心配しないで踉《つ》いて来いと言う。癪《しやく》だったね俺は。仕事なんてものはそういうもんじゃないよ」 「でも結局行ったんだろう」 「使用人さ、所詮は」  伊丹は自嘲して言う。当時の口惜しさ、物事の価値に対する判断のズレが、彼には相当こたえていたのだろう。酒の酔いだけでなく、その頃の自分への蔑《さげす》みが顔に出ていた。  目撃地点として地図にも書きこまれたGという山の中から、警察の自転車が出たと言うのである。届出人は当日虚空の男を見たと新聞社へ連絡した農家の主婦で、あれを見た直後に白く塗った警官の自転車を発見したが、そのままにして置いたのだという。十日近く経って再びそこへ行くとまだ転がっているので、近くの駐在所へ届けたらしい。地元の警察では大して興味を持っていないが、望月はこのニュースを重要視した。  というのは、東日油化の近くを通っている海沿いの国道に、その辺一帯を受持つ駐在所があり、安田という若い巡査と、老練な須崎巡査という二人の警官が事故当時勤務していた。  二人は事故直後現場に一番乗りをした警官で、東日油化の事務所に寄るところだったから、ほとんど事故発生を目撃したに等しい。望月が重要視したのは、問題の自転車がその時須崎巡査の使用していた物に間違いないという点である。登録ナンバーがそれを証明するし、安田巡査の言葉で、あの時須崎がそれを盗まれたのがはっきりしている。  多少面白くないのを堪えて静岡へ来た伊丹も、遥か彼方《かなた》の山中へ、自転車が一瞬の内に移動したとなると、さすがに色をなした。Gという山の中で農家の主婦が自転車を見つけたのが、虚空の男消滅直後だとすると、どうしてもそういうことになるのだ。十キロや十五キロではきかない距離だ。 「ところがその須崎巡査がおかしいんです」  望月は全面的にお手あげの様子である。 「どうおかしい」  静岡駅前の喫茶店で、謙介氏は活きいきした表情で訊ねた。 「須崎さんは入院してるんですよ。それに、家の者は隠してますが、どうやらここが」  そう言って望月は自分の頭を指さした。 「会えるかな」 「ええ。院長の正木先生とは親しいですから。登呂遺跡へ行く途中の正木外科です」 「外科で頭がおかしい患者を扱うのか」 「いいえ、その巡査は事故の時右手を怪我しましてね。指を二、三本切断したそうです」 「どこまで行っても妙な話だ」  私は新しい煙草に火を点けて言った。 「そうさ、普通の出来事じゃない。正木という医者に会うと、初めは右手の指が壊疽《えそ》症状を呈したので切断したと言っていたが、突っ込んで聞くと、何と凍瘡《とうそう》だったと言うじゃないか。時候はちょうど夏の盛りだぜ」 「どうなってるんだ」  私は呆れてそう言った。奇妙な思い出ばなしにいつの間にか引きこまれ、仕事も野心も忘れ果てている。 「須崎巡査の病室を覗くと、右手に包帯をまいた中年男が、廃人のようにうつろな眼でべッドに坐っているんだ。自閉症のような具合で、何を言っても判らないらしい。結局何ひとつ聞き出すことはできなかった」 「自転車が盗まれたと言った、その若いほうの警官に聞けばいい」 「そうだ。むろん俺たちはその足で安田巡査のところへ廻ったよ」  二人の警官は、事故が起るとすぐ線路下へ自転車を投げ出して小高い土手を駆け登った。さすがに警官だけあって、最初に這い出して来た人々の中から、一番怪我の酷そうなのをつかまえて土手をかつぎおろした。  その何番目かの男が、下へつくやいなや須崎巡査を突きとばして、傍に転がっている自転車をたて直すと、気狂いじみた勢いで次の駅の方に向って走り出した。その不審な行動に驚いた須崎巡査は、慌ててそのあとから駆け出したのだった。安田巡査のほうはちょうど負傷者をかつぎ降ろすところで、それを唖然《あぜん》と眺めていたという。  現場に人手が増え、やっとひと息ついた安田巡査が、あれっきり先輩の姿が見えないのに気づいて、追いかけた方角へ行って見ると、ずっとさきの畑の中の道の中央に、須崎巡査が這《は》いつくばっていた。——その時の恰好を、安田巡査はまるで崖《がけ》を這《は》い登る時のようだったと表現した。須崎巡査は長い間その畑の中の道で大地にへばりついていたらしい。 「私がだき起すと、夜が見える夜が見えると言って——須崎さん、すっかり変になってました。右の指ですか、いいえ、その時は気づきませんでした」  若い警官は、そう言うと気の毒そうな顔で伊丹たちから目をそらせた。 「静岡行きの収穫はそれだけだった。事態はますますこんがらがって、見当も何もつきはしない。日が経つにつれて、あんなことはどうでもよくなり、そのために遅れた仕事のしわ寄せで、俺はてんてこ舞いをさせられた。——ところが、事故があってから三週間目だったかな。今度は令子の奴が週刊誌を見て悲鳴をあげやがった」 「どうして」 「虚空の男の顔写真が出てた。間に合った不運、間に合わなかった幸運というタイトルの特集記事の中に、虚空の男の顔が名前入りで出ていたんだ」 「間違いなくその男か」 「見違えるものか。あの顔は一生涯忘れられるもんじゃない」  伊丹は断固として言い切った。「小池清次郎と言って、町野製作所という鉄工場の経理課長だった。事故当日の朝、警察に殺人容疑をかけられて追われたんだ。——と言っても当人はそれを承知してたかどうかはっきりせず、ただ相当疑わしい動きをしたために、刑事が熱くなって追いかけたんだな。結局犯人は別にいて問題は解決したんだが、その小池があの日の急行あおしまに乗るというんで、刑事たちがそれに追いつこうとして乗りそこなったんだ。下手をすれば静岡あたりまで突っ走って惨事にまきこまれたかも知れない。——とまあ、週刊誌の記事はだいぶオーバーに刑事の乗りそこねた幸運を書きたて、逃げるようにして飛び乗った小池という男の不運を強調しているんだ」 「すると小池というのは死んだのか」 「いや、行方不明。完全な蒸発なんだよ」  小池清次郎は中目黒にある町野製作所の経理課長で、別にどうと取りたてて言うことのない堅い男だった。会社自体は街工場としてはかなり大きいほうで、小池は社長の遠縁に当る娘と結婚し、子供は二人、赤羽の団地に住んでいた。一族会社だから本人の能力がどうということはあまりなく、地味にさえやっていれば、将来の不安などありようもない。——のだが、その年の梅雨どき頃から、どうも怪しい雲行きになっていた。小池の預る経理に疑いが持たれたのだ。  町野社長は専務である長男と極秘のうちに帳簿を調べ、小池のところで二千万以上の金が消えているのを知った。そのダメ押し監査のため、口実を設けて小池に九州出張を命じた。出張は八月九日の予定で、二日前の七日には専務がそれを言い渡している。——ところが、八日の午後になって、それが小池の上司である総務部長の佐々木の仕業ということが急に判った。筆跡印鑑その他、巧妙に小池が疑われるように仕組んであったのだ。そうなれば小池出張はもちろん取消され、八日午後から夜を徹して、彼を入れた社長、専務の三人が、目黒区向原の町野邸で佐々木の背任事実を洗いあげた。  明け方その作業が終ると、小池は一番電車でいったん赤羽へ帰って行ったが、その直後町野邸の近くで佐々木の刺殺死体が発見され、大騒ぎになった。小池らしい男に、殺された佐々木がからんでいたのを目撃した者が現われ、当局は小池を訊問しようとしたが、小池はすでにその時旅仕度をして出掛けていた。彼の妻は七日に言い渡された出張命令通りだと思っていたらしい。  警察側の立ち遅れで、それが判ったのは十時半すぎ。小池が急行あおしまに乗る気らしいと判って駆けつけた時は、問題の列車は出たあとだった。  佐々木は使いこみの原因となった愛人の田村久子が経営する、五反田のバー『ボア』のバーテンに刺殺されたことが判ったのは、それから一時間半ほどあとのことだった。佐々木は町野邸で小池たちが何かはじめたのを知り、気になって夜中の二時頃からそのあたりをうろついていたのだ。田村久子と犯人のバーテンは以前から関係があり、前夜二時までボアで飲んでいた佐々木を、そのバーテンは尾行していたのだ。殺意ははじめからあったらしく、町野邸から出て来た小池に、様子を教えろと泣きついた佐々木が冷たく突き放されるのを見て、うすうす事情を知っていたバーテンは、小池に疑いを転嫁させるチャンスと思ったらしい。  しかし奇妙なのは小池清次郎の行動である。細君は、自分は見なかったが、朝の間中ずっとテレビをつけていたから、佐々木殺害のニュースを知らぬはずはないと言う。一方会社側は、融資問題で銀行と緊急な折衝があり、佐々木のかわりに小池がそれに参加するよう命じてあったから、九日という日は大切な日で、彼が無断欠勤するはずはないと言う。しかも、徹夜の帳簿調べの合い間に、社長は直接総務部長昇格を言い渡している。いわばその初仕事だった。  それにしてなお、小池は取消命令の出た九州出張を予定通り行なって急行あおしまに乗ろうとした。さらにその朝、細君は実家である本所の鉄材商から、長年の夢だったマイホーム建設のための土地を借りられることになった吉報を伝えている。その夜か遅くもあくる晩には、その件で本所へ出向くべきなのだ。 「調べて見ると、そんな我儘《わがまま》勝手をする男じゃない。しごくおとなしい人物で通っていて、愛妻家で子煩悩。道楽と言えば〈つれづれ〉という俳句雑誌の熱心な同人だったことくらい」 「またずいぶん詳しく調べたもんだな」 「事件を担当した刑事にあたったり、町野製作所の社長父子に会ったり、赤羽の団地で小池の細君に聞いたり、金と暇を持てあましているような謙介旦那のことだ、調べられるだけ調べあげたよ。——ただ、そのたびに連れて歩かれるのには参った。俺はデザイナーで興信所の調査員じゃない。何度もそう言ってやろうかと思った。そして、だんだん令子や俺に対する謙介旦那の気持が判ってきた。令子は旦那のぺットで、俺は令子のアクセサリーなんだな。金儲けが目的なら、商業美術なんか屁みたいなもんさ。だから仕事なんかどうでもいい。ところがそのちっぽけな金儲けや、大したこともない制作意欲、名誉、美、それに求道心——そういったことに賭ける男もいるんだ。金を渡せば済む、仕事をくれるからいい。そんなもんじゃないさ。俺の心に、あの二人を嫌うものがだんだん育っていった」  瓶の中身は半分以下に減っていた。酔って声を大きくする伊丹の瞳には、何の実質的な支えもなく、夢だけで世の中に掴みかかっていた頃の一途な光りがあった。そのナマな光りをふと青臭い、いやらしいと思う心がかすめ、次の瞬間私は慚《は》じた。——この怒り、この誇り、この光り。伊丹と同じく私も曾《かつ》ては持ち合わせていたそれらのものを、生きて行く世の塵に棄て、いやその塵にこそなろうと己《おのれ》をへし曲げて、愚にもつかない出世欲からこうして伊丹の前へ坐っている。  そんな風に思ったのは、私も酒に酔っていたからだろうか。  虚空の男に対する京藤謙介の執着は、そのあたりから次第に消えていった。金に飽かせて一気に調べるだけ調べると、掘り起される新事実もなく、やがて謙介氏は欧州で行われる造船工業会議のために羽田を発った。  その出がけの一夜、伊丹は令子と結婚するよう奨められた。二人がとうに他人でないことは知れていたから、いつまでそんな関係を続けるのは許せない。正式に結婚しろという言い方でビシリとやられた。きつい目で高圧的に言ったあと、謙介氏は柔和に笑って見せ、今は表現技術だけをやらせているが、そうなれば東日グループをA・E扱いにする総合広告代理店にしようと言った。その場には令子もいて、何やら贅沢《ぜいたく》な甘い香が漂って来るようだったという。  謙介氏がヨーロッパヘ発って一ヶ月あまり経ったある日、不意にS新報の望月から電話があり、いま東京駅に着いたところだと言う。謙介氏は海外旅行に発って三ヶ月くらい帰って来ないと告げると、ひどく落胆した様子で、それでは伊丹と令子に須崎巡査の話を聞いてもらえまいかと頼んだ。須崎はどうやら正気に戻ったが、それでも東京の精神医に診てもらう必要があり、上京したらしい。  待っていると、望月と細君らしい貧相な女につきそわれた須崎巡査が現われた。  あの時、須崎は何人目かの怪我人を土手下へかつぎ降そうとしていた。土手の途中で、その顔中血まみれの男は、病院へ運ばれるのですかと、かなり丁寧に聞いた。須崎がそうだと答えると、どこの病院か判りますかと重ねて問う。ここなら静岡市内の病院で手当をしてもらえるから安心しろと言うと、ああそうですかとおとなしく肩につかまっていたが、下へおろすや否《いな》や、いきなり自転車に飛びついて、ふらつきながらも走り出そうとする。追いかけると、戻るのは嫌だと叫びながらどんどん逃げ、あの畑の道へ出た。須崎の手がもう少しで荷台にかかりそうになった時、突然目の前にポッカリ夜空が口をあけた。 「夜の空としか言いようがありません。星が無数に輝いていて、どこまでもどこまでも拡がっていたのです。その男は自転車ごとその夜の穴へつんのめって、私のほうに両手をさしのべるようにくるりと一回転すると、気味の悪い叫び声をあげて落ちて行きました。私は咄嗟《とつさ》に柔道の要領で転がり、その何とも底の知れぬ穴をのぞきこみました。自分でそうしようと思ったのではなく、転がった拍子にそんな恰好になってしまったんです。恐ろしかったのはそのあとで、夜の穴も自転車もその男も、掻き消すように無くなり、穴がすうっと閉じたあたりに私の右手のさきがうすぼんやりと見えていたのです。それからあと、私は狂ってしまったのでしょう。何も知りません」  須崎はそう言い、伊丹が小池の写真を見せると、ギョッとしたように身を引き、薄気味悪そうにそれと伊丹の顔を見較べていた。望月は須崎の件に深入りして引っこみがつかなくなっているのだろう。退職後の彼を、倉庫番にでもよいから使ってくれるよう頼んでくれと念を押して帰った。  伊丹は考えた。これで小池清次郎が虚空の男になったことは完全にはっきりした。しかしなぜ虚空の男になったのかは依然判ってない。だがそれまでの詳しい調査で、八月九日の小池にどこへも旅行できないような事情が積み重なったのが判っている。  横領問題の後始末と融資問題の処理は、彼を会社に縛りつけようとした。おまけに部長就任という餌までついている。  佐々木殺害事件は、彼を参考人として都内から出られぬようにしている。テレビのニュースで知っていたはずだから、会社へ駆けつけるなり警察に出頭するなりするのが当然なのにそれをせず、そのため一時は犯人と目されて刑事に追われた。  念願の土地を細君の実家が貸すのを承知したのは、家族のためにも旅行など出来ない状態を作っている。——その他にも、毎月十日は同人誌〈つれづれ〉の月例会で、十年間連続出席の記録保持者である小池に幹事の番が廻っていたことなどあって、彼は八月の九日十日という日にはまったく旅行のスケジュールがたてられなくなっていたのだ。それなのに、まるで予定したように急行あおしまに乗っている。東京から西に親類はなく、急用のできた心当りも関係者にはまったくない。しまいには彼はあの惨事にぶつかり、それでもなお西に向って自転車で走り、畑の中でとうとう虚空に転落した。この小池の無茶苦茶な逸脱ぶりは何だろうか。憑《つ》かれたように九州めざして突っ走ろうとしている。しかも急行あおしまの切符は出張を言われた七日にすぐ手配して、大切に持ち歩いていたという。——伊丹は小池のその行動に、何か常識を超えた情熱のようなものを感じた。  それっきり何も起らず何もなく、事件から一年近くたった。伊丹デザイン工房は大いに栄え、彼自身の名も売れに売れた。それ以上に、伊丹デザイン工房のイラストレーター折賀令子の名も、マスコミに喧伝されていった。前衛的な演劇集団の舞台装置を引き受け、詩集に挿絵を書き、婦人雑誌の座談会に出席し、おしゃれに関する随筆をものし、女性週刊誌の服飾コンサルタントになった。——ベスト・ドレッサー折賀令子。現代を生きる女折賀令子。など、など、など。  すべては令子が華やかに愉しく人眼を魅くための道具だてに過ぎないのだ。今売れている自分の名も、東日グループ三十数社の大きな舞台を割引いたら、泡のようなものしか残らないのではなかろうか。これが現代の仕組なのだろうか。努力と精進より、力と力の間にうまくはさまって、それを利用することのほうが遥かに早い結果を生む。その結果は、どうも実りではなさそうだ。令子とこのまま結婚して、そんな中で自分を踊らせて行く才能があるだろうか。  令子はかろやかにマスコミの中を踊り続け、それをみつめる伊丹に深い迷いを与えた。迷いは反省に変り、酔い醒めに似た虚しさが、伊丹を元の伊丹に引き戻した。 「そんな時、偶然志津子に逢った。令子を知ってから、ふりほどくようにして俺が背を向けた女だ。ふたつ年下の幼馴染《おさななじみ》で、銀座のホステスをしていた。貧乏ぐらしの間中、時にはうんざりするほど俺に尽してくれていたんだが——這いあがることだけしか考えなかった俺は」  伊丹はすっかり酔っていたが、その言葉だけはしんみりと醒めた調子だった。絶句して、残りの酒を喉にほうりこむ。 「それがこの家《や》の——」 「うん。——ちょっと因縁めくが、志津子の奴が虚空の男の結末をつけやがった」  志津子は銀座のバーに勤めていて、令子の世界を逃げ出した伊丹と縒《よ》りが戻った。絵を描くあなたが好き、広告をやるあなたは別な人、とはっきり言い、大切に飾ってある自分の肖像画の前に伊丹を坐らせた。 「私に絵のよし悪しは判りません。でも今のあなたにこれだけの絵が描けますか」  と母親のように叱る眼で言った。仕事のない貧乏ぐらしを忘れようと、一心にかいたその絵を見て伊丹は我が眼を疑った。俺にこんないい絵が描けたのか、今はとてもこれほどは描けないだろうと、正直昔の自分に頭をさげた。 「昔のように勉強して、それで出世して下さい。それまで私がつなぎます。駄目でもともと、そのほうがずっと私は倖せです」  言葉を改めて言う志津子の前に、伊丹は両手を突いて詫《わ》びた。  西大久保二丁目へ移って、志津子も勤めを新宿に変えた。ある夜ふと虚空の男の話をすると、むっくり夜具の上へ起き直って、その人知ってる。たぶんその人だろうと言った。  銀座の店の常連に、高条鋭という男がいた。人を悪くからかうのが好きで、いつもあとから腹の立って来るような、遠まわしな冗談を言って喜んでいた。  それがクラス会の流れだとか言って五、六人を連れて来たことがあるが、小池らしい人物はどうもその一人だったように思う。と言い、古い名刺の束を出して、やっぱりそうだったわと頓狂な声で言った。 「その人、生まれてから一度も旅行をしたことがないんですって。それでみんなの肴になっていたのよ。そうそう、そうしたら高条さんがこう言ったわ。——そう小池をいじめるもんじゃない。人間誰しも持って生まれた分というものがある。一生の内どれだけ出世し、どれだけ遠くまで行けるか、生まれた時からちゃんときめられているんだ。ヨーロッパはおろか、南極まで行く人間もいれば、川崎の手前までしか行けない奴だって大勢いる。どっちかって言えば、小池は東京の中だけで一生を過すように生まれついているんだから、人の生まれつきを笑うのは片輪を笑うのと一緒で、笑うほうがいけない。——高条さんて、そんな言い方をするのよ。聞き流して少したってから、小池さんはムッとしたように、それじゃ俺は片輪なのかって。そのタイミングがおかしいって、みんなはまた大笑い。でもその人が旅行したことないって、本当らしかったわ。東京生まれの東京育ちで、市川と横浜の間しか行ったことないんですって。もう四十近いかしら。珍らしいから私も忘れなかったのね」  伊丹はその間中、凝然と天井を睨んでいた。行ける範囲は初めからきまっている。——その言葉を繰り返し心の中で呟《つぶや》きながら。 「それ、いつのことだったか判らないか」  そう言うと、几帳面《きちようめん》な彼女は、小池の名刺を引っくり返した。 「あら、去年の八月六日だわ——」     *  結局伊丹は引っ張り出せなかった。  しかしPレーヨンの仕事は、私の案ともうひとつの案の折衷のかたちでまとまり、首尾よく採用となった。社の扱い高は一挙に膨れあがり、社員も増え、事務所も拡張され、Pレーヨンの近くのビルに分室を設けて、社運は隆盛の一途を辿《たど》った。  しかし、先方の前田常務がもっと上の職に就いて、宣伝部の人事に大移動があってから、私の社内にPレーヨン取扱いをめぐって権力争いが起り、社長派と専務派の二つに割れた。中間にあって、Pレーヨン導入を果した私はさんざん振りまわされたあげく、最後にはまんまと浮いた存在にされ、企画開発室長という、妙な閑職の立場に追いやられ、やがて比較的親しかった専務が権力争いから脱落すると、もうどうにも居づらい空気に置かれた。  そして結局辞めた。  失業を妻に告げるのは辛かった。妻の親類から、またとない仕事の上での援助を受けただけに、それを無にしたようで、自責の念が強かった。ところが、 「気にしないわ。それよりいつ辞めるのかと思ってたのよ。だいたいあんたなんかにサラリーマンの、それも次長さんなんて勤まるはずないと思ってたもの」  とケロリとしている。妻が私をそんな風に見ていたのが意外で、「ふーん」と言ったきり、その話は打切りになった。  静養のつもりでしばらく家にゴロゴロしていると、二週間ほどして伊丹から電話があった。 「おい、借家ずまいだったな。庭、あるか」 「あるが猫の額だ」  よし、と言って電話は切れ、夕方になると訪ねて来た。志津子さんも一緒で、何やら二人とも包みをかかえている。 「何を持って来たんだ」 「レンガさ」  伊丹は十個ほどの煉瓦を狭い庭に四角く積み、台所へ入った志津子さんは、豚のモツを串《くし》に刺した。持って来た堅炭をカンカンおこし、私と伊丹は縁側でモツ焼を肴に飲みはじめた。タレも七味唐辛子も、屋台の味そっくりで、酒も水っぽい安物だった。  初対面で意気投合したらしい女たちは、座敷で勝手にやっている。  酔って来ると、伊丹はしきりによかった、よかったを連発し、私がサラリーマンを辞めたことを祝福する。 「下手すりゃ分にない道で虚空の男になるところだった」  と冗談を言い、「だがあそこまで突進した小池清次郎の意地は買ってやろう」  と私の肩を叩いた。妻でさえ見抜いていた私の分に私自身が気付かなかったのが気恥かしく、そうだそうだと騒いでいるうちに、売れぬながらも小説に意欲を燃やしていた昔を思い出し、ふっと屋台で安酒のオダをあげていた頃の気分になった。  ——この趣向は。と私はそこで気づいた。重い煉瓦と豚のモツと安酒と。わざわざそれを運んで来た伊丹の、とんでもなく深い友情に、私の頬を泪《なみだ》が幾筋も滑り落ちた。 「レロレロレロ、バア。あんたのパパは泣き上戸。ほら、あんたのパパは泣き上戸」  座敷から、赤ん坊をあやす妻の声がして、そのたびに乳児特有の息を引くような笑い声が聞えた。  組曲・北珊瑚礁《ノース・リーフ》   プレリュード・宇宙人はなぜ心配するか 「まだやってる。好きなんだなあ」 「戦争か」 「いいかげんにやめりゃいいのに」 「無理言うなよ。ああやって成長していくんだから」 「だいたい俺《おれ》はこのプログラムが嫌《きら》いだ」 「いまさらプログラムに文句言ったってしようがない」 「お前、そうは思わないか」 「どう……」 「ここの進化プログラムは無理ばかりだ」 「そうかな。まあまあだぜ」 「ここんところへ来て余計無理が目だつよ」 「飽きたんじゃないのか、この仕事に」 「飽きたね。星雲設計家かせめて進化プログラマーぐらいならなあ」 「言ってはじまることじゃなし」 「のんきだよ、お前は」 「もっとつまらない仕事だってあるんだ。俺は進化監視員で満足さ」 「たまには疑問ぐらい感じたらどうだ」 「何に」 「人生にさ」 「笑わせるない。下の奴らじゃあるまいし」 「そう下の連中を馬鹿にしたもんじゃない」 「俺たちが作ったんじゃないか。尊敬しろったって無理さ」 「それだよ。それが気に入らないんだな」 「どうして」 「たしかに連中は俺たちが作った。そいつは間違いない。だからって、あいつら|でくの坊《ヒユーマノイド》じゃない。まだ子供だというだけで、いずれは俺たちと同じになる奴らだ」 「おいおい、どうしたんだ。……子供だなんて、しっかりしろよ」 「子供なんだよ」 「未発達ということか」 「そうだ」 「それなら未発達と言えばいい。子供だなんて哲学的に言うことはない」 「子供と言ったほうが正確なんだぜ」 「子供という表現には、たしか人格が含まれてるはずだ」 「そうさ」 「お前、下の連中にいちいち人格を感じろというのか」 「一人一人に感じろと言ってやしない。そういうことじゃないが、つまりあれは子供なんだよ」 「子供子供って、いったい何が言いたいんだ。はっきりしろよ」 「……つまり、子供さ。そいつは、その……セックスと関係あるんだ」 「セックス。何だそれ」 「生殖……」 「お前、また下の連中から何か仕入れて来たな」 「ああそうさ。あいつらは俺達の過去だからな。興味があるのさ」 「過去すぎらあ」 「でも、俺たちも昔はセックスを持ってたんだぜ」 「下の連中はついこの間まで樹にぶらさがってた。その前は鰓《えら》呼吸をしてた」 「それが進化じゃないか」 「すると何か、下の連中は鰓呼吸をする生き物を見て子供だっていうのか」 「そうは言わないよ」 「じゃあ同じことだ。俺たちだってあいつらを子供と思うことはない」 「でも、あいつら……つまり俺たちの過去には子供というものがあった」 「そういうものから俺たちはとっくに解放されている。それが進化さ」 「そうだ、問題はそこなんだ」 「何を判らないことばかり言ってるんだ」 「俺たちは本当にセックス……つまり生殖から解放されているのかい」 「現に生殖なんて俺たちにはないじゃないか」 「じゃあ聞くが、俺たちはなぜ進化監視員なんだ」 「え……おいおい、どうしたっていうんだ。えらく面倒なことを言い出すじゃないか。つまり、なぜ俺は進化プログラマーや星雲設計家になれなかったか、っていうことかい」 「そうじゃない。そういうこととは別だ。つまりなんていうのかな……俺たち全体がなぜ次々に星雲をこしらえたり、進化プログラムを組んだり、その進化を監視したりしなければいけないか、っていうことだよ」 「それはなぜ生きてるかってことだろう。星の集団を作り、知的生命の進化を方向づけ、その進行を監視する。そいつをやめたらどういうことになるんだい。こっちからおうかがいしたいね」 「それをやめたら俺たちは存在しないんじゃないのか。下の世界には自殺というのがあるのを、お前知ってるか」 「自殺……知ってるよ」 「自分で呼吸をやめちまうんだ。そうすると連中は存在しなくなっちまう。たとえにはならないかも知れないが、よく似てる。仮りに俺が今、監視員に嫌気《いやけ》がさして仕事をやめたとすると、俺は存在しなくなっちまう。連中のように生理的に自己否定をやることはできないが、目的を放棄することで精神的に自己否定はできる」 「やる気じゃあるまいな」 「心配するな。俺が言いたいのは、なぜ俺たちが星を作り生命を進化させるかということだ。下の連中が呼吸するように、俺たちはそれで生きている。なぜ生きてる……」 「なぜ生きてる……か」 「下の連中が持ってるセックス……それについていろいろ考えてる内に、ふとそう思ったんだ」 「どう……」 「本当に俺たちは生殖から解放されているんだろうかということさ。次々に星雲を建設する。その星の集団の中には必然的に知的生命が発生する可能性を持った星が含まれている。その星のひとつひとつについて、進化プログラマーがプログラムを組む。俺たちが出向いてそのプログラムの進行を監視し、時には進行を修正しながら一定のレベルまで育成する。それをやめることはできない。やめれば存在しなくなっちまうからだ。……こいつは生殖行為じゃないのか」 「ひどいことを言うじゃないか。すると俺たちは生殖行為ばかりやってるのか」 「違うか。下の連中は生物学的にセックスする。俺たちは工学的にやる。それだけの違いじゃないのか」 「そのセックスとやらが俺たちのすべてなのか」 「そういうように思えるんだ。となると、下の連中は俺たちの子供だ。あいつらはどんどん成長していって、やがて鰓《えら》をなくしたようにセックスもなくす。呼吸もしなくなり、すべての生理から解放されて俺たちと同じ存在になる。だが生きている。生き続ける。そのために俺たちと同じように目的を持つ。その目的は……」 「星雲を作り進化をプログラムし……」 「そういうことだ」 「つまり、セックスだけがその長い進化のプロセスをつらぬいているのか」 「その証拠に、あいつらがいまセックスをやめれば、この星に生命は存在しなくなる。呼吸はそのセックスのため、エネルギーの補給も同じこと……連中が食ったり息をしたりするのは生殖によって存在しつづけるためだ。俺たちが星を作らなくなったら存在しなくなるのと同じことじゃないのかな」 「変だな。どうもお前に説得されかかっているようだ。でもな、あいつらが俺たちなみになるとしたら、そのとき俺たちはどうなる。やあいらっしゃいというのか」 「俺たちもまだ進化してるんじゃないかな」 「よせやい。冗談じゃないぜ。俺は進化監視員だぜ」 「だけど、連中が俺たちの立場にまで届いたとき、俺たちはもっと上にいそうな気がするんだ。どこかで本当にセックスから解放される時が来ると思うんだがな」 「待て待て……妙な気がして来た。するとこういうことになりはしないか」 「どういう……」 「どこかに俺たちを作り出した連中がいるんだ。俺たちが下の連中にやったようにさ。俺たちはまだ未発達で、進化の方向を監視されている……どうだい」 「どうやらこの議論はきりがないらしいな」 「お前のいう、下の子供たちという意味が判ったような気がするよ。なるほどね」 「だろう。だから手は抜けないよ。抜いちゃいけないんだ」 「プログラムは完全なんだろうな」 「ほらみろ、俺と同じようなことを心配しはじめたじゃないか。……俺はここのプログラムには少し無理があるような気がするんだ。あのでかい大陸をまるごとひとつ、長い間こっち側の文明から切り離して置いて、あとでいっぺんに接触させて加速効果を生み出そうなんて、少し荒っぽすぎるんだよ」 「でも、こっちの弧状列島のほうは仲々うまい仕掛けだぜ。地理的に隔離して単一民族に仕たてあげる。それでいてどの時期の文明も少しずつあそこへ行きついて刺激するから、老化現象が起らない」 「全体の文明が加速度的発展段階を迎えたとき、あそこの連中が細分化された各分野をより合わせ、新しい局面に導いて行く役を果すんだ。そういうプログラムになっている。そのための特性をつけるために、今までずっと温存されていたんだ」 「うまいアイデアだよ」 「よくないよ、ちっとも。アイデアだおれで動物的側面が甘やかされちまってる」 「そうかな」 「弱くなってるんだ」 「まさか。でも、もしそうだとあとが面倒だぜ。あそこに欠陥があると、この星全体のレベルアップが遅れちまうじゃないか」 「急に仕事熱心になったな」 「子供さ」 「子供……」 「母性愛に目ざめたって奴だ」 「母性……お前、父性と母性の違いが判ってるのか」 「知るもんか。でも、どこかに俺たちの親がいるかも知れないと思うと、妙な気分だな」 「それで下の連中を子供だと思いはじめたわけか」 「まあな」 「わが子孫の将来のために、それじゃひとつテストでもしてみるか」   クーラント・平和なんか糞くらえ  こんなことはあり得ない。そう思っている表情だった。意外すぎて顔色もまだ変っていない。ただ口を馬鹿みたいにあけっぱなしていた。その顔へ力いっぱい平手うちを叩《たた》きつける。左手で相手の襟《えり》をつかみ、倒れないように支えてやっている。喋《しやべ》る気がしない。言いたいことを言えば、それだけ怒りがしずまってしまう気がしたからだ。二発目は、もっと力を入れる。ピタッと気持のいい音がする。その音を聞きたくて、すぐ三発目がでる。  相手は部長だ。上司だ。そんなことはもう関係なくなっている。むしろ、上司を撲《なぐ》るから気分がいい。ずっと我慢していたこと。何度もやろうとしたこと。それをいまやっている。目の前の顔がやっと変化しはじめた。唇の端から血が滲みはじめる。みるみる蒼白な顔色になっていく。平社員が部長を撲る。その異常事態が呑みこめたようだ。  矢部が人を撲るのはこれがはじめてではない。むしろ撲る経験は豊富なほうだ。撲り合い。学生時代はしょっちゅうだった。しかしこういう撲り方ははじめてだった。勝負は最初からきまっている。四十を越えた男と二十七歳の男。敗けるわけがない。たとえ手向って来ても上背体重フットワーク、それにパンチ力。どれひとつとっても矢部にひけ目はない。それなのにしつっこく撲る。五分の喧嘩《けんか》じゃないからだ。その証拠に平手うちばかり。こぶしを使うのは相手に物理的なダメージを与えるため。いまは違う。精神的に叩きのめしてやりたい。罵ることを平手でやっている。口でいうより手のほうが早い。矢部の頭のどこかでそんなのん気なメロデーが流れている。  部長の体が沈んで行く。もう算《かぞ》え切れないほど撲った。少しダレてしまったので掴《つか》んでいた襟をはなすと、部長はだらしなく床にへたりこむ。床はタイルで、少し濡れている。  何か情けない声でさかんに言っている。見おろすと貧相な中年男が、タイルの床に正座しなおすところだった。靴をはいたままきちんと膝をそろえている。便所の中でだ。横にずらりと小便器がならんでいる。どこかで水が流れっぱなしになっているらしく、しゅるしゅると音が聞える。両手を床について頭を深ぶかとさげる。馬鹿らしい。見たくもないざまだ。思わず目をそらすと、小さな窓の外に高速道路が見えていた。  四年。この会社へ勤めてもうそんなになる。何のためにこんな所でじっとしていたのか。自分でも見当がつかない。 「馬鹿だなあ」  廊下で部長をとっつかまえ、この便所へつれこんでからはじめて矢部が物を言った。思わずそう言ってしまった。部長を撲りはじめたときの憤りもない。むかつくような不満も消えた。このあとどうなるか、別に心配もしていない。四年間のむなしさだけが残る。外はピーカン。さぞ暑いことだろう。その熱気の中で思いきり汗を流したらどんな気分だろう。そう思っていた。部長はまだ正座している。そいつが部長で何か自分に命令したこともある奴だなんて、ちょっと不思議だった。ボロっきれの塊りみたいにそこにある。ただそれだけ。権威も親しみも、反感さえない。  くるりと踵を返し、出口へ向う。ドアをあけて廊下へ。見なれた顔が二十ばかり重なっている。そしてしいんと静まり返っている。みんなが矢部を見つめている。その眼。友達でも同僚でもない。敵意もない。ただ珍らしいものを見ている眼。緊張して息を殺して、ただ珍らしがっている。かまわずエレベーターホールヘ向う。ボタンを押して習慣のようにランプをみつめる。急にざわついた。部長が出て来たらしい。みんなデスクヘ足音をひそめて戻って行く。部長がどういう表情だったか。別に気にもならない。もうこんなところ、どうでもいい。サラリーマンなんて、もうまっぴらだ。  タクシーが停り、矢部のでかい体が降りたつ。そのまま突っ立って眺めている。  うす汚れたブロックの塀《へい》がながながと続いている。目の前は門。松材の扉が内側へ押しひらかれ、その中はだだっぴろい黒い土。左側は塀にそって細長い平屋。門の右側に古びた木造の二階屋が一軒。それに井戸。赤い錆《さび》と緑のペンキが入り混った手動ポンプ。昔のままだ。  上着を肩にひっかついで、矢部は大股に歩き出す。テニスコートの金網を左に見て進むと、土がだんだん柔らかくなり、ひと足ごとに埃《ほこ》りが舞いあがる。右のほうから鋭いホイッスルが聞える。それに短かい喚きが重なる。サッカーの連中だ。大きな砂場を迂回《うかい》し、堤防のように小高くなったところへ登ると、視野いっぱいにラグビー場がひろがっている。ひと気はない。上着を草の上にほうり出し、はずみをつけて駆け降りると、タッチラインをこえ、ハーフウェーラインにそって、ひと足ずつ感触をたしかめるように歩く。  帰って来た。ふとそう思う。この土。この風のにおい。突っ走る、ころがる、蹴る、また走る。激しい息づかい。自分の、仲間の、敵の。そこへ帰って来た。たたかいの味。忘れそうでいて、決して忘れられない。しゃがんで土をつかんでみる。腕をつたわって、腹の奥底に、懐かしい何かが通って行く。首から上を運ぶために、いやいや手足を動かす世界があった。そこにはこの土みたいなものはない。体を精一杯使うために、首から上が緊張する。そういう世界にしかないもの。それがこの土だ。帰って来た。あれは俺のいる所じゃなかった。だから帰って来た。  土をほうり投げ、ゴールラインを見る。白い雲にクロス・バーが。四年間ひどくくだらないものにまきこまれていた。セールスマニュアル、サービスマニュアル。伝票、会議、ボーナス。なにひとつ、重要なものなどありはしない。本当に重要なものはアパートの部屋のどこかにしまいこんで、埃りまみれにさせていた。朝九時半出勤。この俺が、奴隷のように萎縮《いしゆく》して、会社に駆けつけていた。何におびえていたんだ。あのタイムレコーダの屈辱的な感触。それを、機嫌《きげん》よく笑いながら押していた。会社。敵なのか味方なのか判らない。失敗してもホイッスルさえ鳴らない。わけ知り顔の微笑がやって来て、ふたことみこと。それで終りだ。だがいつの間にか借りになってる。女にならなきゃやって行けない。はずかしいほど喋らなきゃ判ってもらえない。小指の爪で目玉をつつき合うような陰気な闘争。滑稽でさえある。とてつもなくしまりのない、湿気の多すぎる世界。バナナの皮のそばに転倒注意の標識をたてるような、遠まわりな処理しかできない連中の集まり。それでいて、誰ひとりくたばりもしない。しあわせな、平和な世界。それが平和なら、平和なんか糞くらえだ。  部長を撲って会社にさよならして来た。撲ろうと決心したとき、矢部はここへ戻っていたのだ。この黒い土の上を駆けまわっていた男にかえったのだ。撲りつけて、それで区切りがついた。そのまんま、あのビルを出て、暑い街路に立ったとき、足は自然にこっちを向いていた。理屈抜き。よく考えもせず足の向くにまかせ、それがずばり正解。あの世界が自分に不向きなら、体でぶつかって行って、その結果だけがすべての、この世界で生きるより他に行き場所がない。東京の西のはずれにあるこのグランドが、矢部の原点といえる。いくら世の中がどうしようもなく平和だろうと、男がたたかえる場所は、まだいくらか残っているはずだ。  草の生えた低い土手へ戻って、ゴロリと横になる。雲がゆっくり動いていた。そんな長い時間、空を見ているのは、実に久しぶりだった。目をつむる。鮮やかな肉の色の世界。それは人間の色。コンクリートの壁は灰色だった。ふたつは、矢部にとって、まるっきりとけ合わない。矢部はいま、眩《まぶ》しい空にむかってやわらかく目をとじ、人間の色にひたっている。  ずっとそうしていた。二時間か、三時間。やがて起きあがり、ぶらりぶらりと引き返す。門の脇の、管理人一家が住んでいる二階屋のそばのポンプで手を洗う。軋《きし》む音も昔どおり。跳ねた水がズボンのすそを濡らすのも昔どおり。大きく股をひらいて、ついでに顔も洗う。 「矢部さん。矢部さんじゃないの」  なれなれしい、素っ頓狂な女の声。思わず、ニヤリとふり向く。 「よう」  おばさん。そう呼んでいた。それ以外に呼び方はなかった。そのおばさんが顔中で笑っている。屈託がない。昔のとおりだ。 「おいでよ」  外から帰って来たとこらしい。買物籠をぶらさげている。南側の縁側があけっ放しになっていて、おばさんはそこからあがる。矢部もついて行く。 「どう」 「まあまあさ」  随分会わなかった。何年も会わないでいて、会うと別れた次の日の状態ではじまる。礼儀、手続き。そんなものは一切なしだ。縁側に腰をおろす。うしろで冷蔵庫のあく音がして、 「肥ったみたいだよ」  と大きな声。矢部は軽く鼻でわらう。随分世話になってる。運動部員は誰でもだろうが、矢部たちのグループは特に管理人一家と親しかった。 「いい風がくる」 「はいよ」  おばさんが矢部の横に大きなコップを置いた。冷えた水だ。コップをとりあげると、縁側の黒ずんだ板にまるい跡がのこる。喉《のど》を鳴らして一気にのむ。充分つめたいし、なんだかジーンとくる。おばさんの水はそういう水だった。 「チー坊、前田の嫁さんになったんだってな」  コップを置きながらそう言う。最初についたまあるい跡へ、ピタリ重ねて戻す。 「岡山にいるよ。来年の二月に生まれるんだとさ」  おばさんは座敷で煙草を吸いはじめる。うすいけむりが矢部の顔の前を、平べったくなって流れて行った。 「生まれるって」 「やだね、子供だよ」  おばさんが笑った。いつもジーパンはいていたおばさんの娘が後輩の前田と結婚して、もう子供ができる。腹筋のあたりに擽《くすぐ》ったい衝動が起き、体中にひろがって行く。おばさんに背中をむけたまま、立ちあがって大声で笑う。あおむいて、空にむかって大笑いする。 「なんだよ、相かわらずだね」  笑いおわると待ちかねたようにそう言う。 「おめでとう、おばさん」  矢部は子供のように膝《ひざ》で這《は》って、座敷にいるおばさんに握手を求めた。おばさんの手はひんやりと乾いていた。 「それにしても、あの前田の奴」  親父になる。どんなつらで。そう思うとまた笑いたくなってくる。 「あんたはどうなのよ」 「子供かい」 「馬鹿だね。嫁さんだよ。そのほうがさきじゃないか」 「女房か」 「その顔つきじゃ、まだだね」 「合宿、相かわらず汚ねえな」  向う側の細長い平屋をのぞきこんで言う。 「ゆっくりしていきなよ。いいだろ」  晩飯を食って行けということらしい。  暗くなってから、近所の子供たちがひとかたまり、グランドヘ入って行った。いちばん手前の軟式球場で花火をはじめた。女の子がひとり、浴衣を着ていて、その白い姿が時々花火の尖光《せんこう》に浮びあがる。 「帰るよ。ごちそうさん」  鯵《あじ》の塩焼きに冷奴《ひややつこ》。おやじさんの晩酌をほんのひと口わけてもらって、それで飯。男の子はもう大学生で、しかもここの大学じゃない。運動部に入っていて、どこかで合宿しているらしい。だから夫婦ふたりっ切り。淋しいと見え、しきりにひきとめられた。  別れて暗い路を歩く。随分濃い一日だったように思える。だが、考えてみると、何もしちゃいない。部長をぶん撲って、そのあと草の上で寝てただけだ。約束。そいつをうっかり忘れるところだった。花火を見てて思い出した。伸子が銀座で待っている。駅までだいぶある。そこから私鉄で渋谷へ出て。だから遅刻だ。でも、大した約束じゃない。惰性みたいなもの。他の女よりは好きだし、話していても不快じゃない。大きな会社の秘書をやってる。おしゃれで、頭の回転が早い。べッドでは猫のようにじゃれつく。選んだ、というのではない。なんとなく、いつの間にか組合わされていた。結婚。そんなこと、二人とも口にしたことがない。少くとも、矢部は考えたことがない。一メートル六三センチ。矢部の肩へ頭をもたれて歩くのが好きらしい。一度、なぜ俺を、と聞いて見た。連れて歩いてかっこいいから。そう答えて笑った。気楽で、丁度いい。だから続いている。同いどし。むこうは英文科。  渋谷で地下鉄にのりかえ、赤坂見附を過ぎてから、やっと気がついた。待合わせているバーは会社の連中もよく知っている。矢部の巣。そういうことになっている。それに伸子を知っているのもいる。来てるかも知れない。昼間のことで、ごちゃごちゃ言われるかも知れない。それは面倒臭い。もう縁を切った。部長だけでなく、ビルにも、デスクにも、伝票類にも、同僚にもだ。だが判っちゃもらえまい。部長と喧嘩して、マズイからおん出た。友達は友達。そう思ってるだろう。でも、これからは別な世界の人間になる。生き方が違う。考え方も違う。つき合っていけるわけがない。ひょっとすると、伸子とだって。  いつもどおりの銀座。明るくて、夜でもなければ昼でもない。着飾ったヌードモデル。そんな感じだ。すっ裸にむいても着飾ってる奴。  青い階段を降りると木のドアを押す。ひんやりと、床油に水に酒の入り混った匂い。どこの酒場にも共通している。目だけで、素早く探す。いちばん奥にいた。男たちにかこまれてる。おしゃれだから、なんとなくホステスめいて見える。でも、ここはホステスを置いていない。置いてれば高い。高ければ巣にできるわけがない。 「来た来た」  近寄るとそう言って、五人ばかりが気をそろえて拍手をした。会社の連中だ。待ったとみえ、テーブルの上が乱れている。もう酔っているらしい。 「矢部直也の快挙を祝して」  いっせいにグラスをあげる。もともと少し人種が違うと思われていた。だから連中、気楽なのだろう。やりそうな奴がやりそうなことをしでかした。そんな表情だ。仲間うちではいくらか個性を認め合ってる。でも、課長をとびこして部長となると、下の連中はただの社員。そうしか見えない。だからあの時ぶったまげてポカンとしてた。社員なら撲るにしてもそれなりの手続きをする。いきなり来るのは、社員じゃなくて人間だからだ。部長から見おろすと、平社員は没個性で人間じゃない。会社とは、そういう仕組みになっている。どういう人間か知りたいときは、ファイルに入ったデータを読む。それで判るらしいから大したもんだ。 「からかうなよ」  伸子のとなりをあけて、押しこむように坐らされた。首に札のぶらさがった瓶《びん》からウィスキーがたっぷりとつがれ、氷を二、三個、水をほんの少し。 「ねえ、ほんとに部長さんを撲《ぶ》ったの」  言い方がおかしい。思わず笑ってしまう。女が言うとどうしてこうなんでも平和に聞えるんだ。そのくせ、くだらないことでも深刻になるけれど。 「かなり撲《ぶ》ったね」  男たちが引っくり返って笑う。部長に対する反感が根深い。矢部よりも、もっと肚に据えかねてる奴もいるはず。だからよろこんでる。うれしがってる。だったら、なぜ自分でやらねえんだ。矢部は憮然《ぶぜん》として酒をのむ。 「いまこの人たちに聞いたけど、部長さんて、ほんとにそんなひどいことをした人なの」 「おかわり」  ひと息にあけたグラスを、伸子の前へ置く。伸子は素直に水割りを作る。 「ねえ、ほんとなの。信じられないわ」 「もうすんだ。会社もやめた」  その言い方。伸子はよく知っている。さり気ないようでいて、腹にずんと響いてくる。こんなとき、矢部は本気だ。しつっこくやると、ぷいと立ってしまう。それっ切り見向きもしないで消える。消えてもらいたくない。特に今夜は、そんなことがあって、女として矢部の傍にいてやりたい。矢部にとって、そういう女であることが、伸子にはこころよいのだ。世話女房をやってみたい。 「辞表の書き方知らないでしょう。教えてあげようか」  だから矢部の気に入るような言葉を探し、気に入るような言い方をした。 「辞めることはないよ」  男たちが言う。本当にそこまで考えていなかったのか。それとも社交辞令か。 「駄目ねえ、あんたたち。撲《ぶ》つってことは辞めるってことで、撲《ぶ》ったってことは辞めたってことじゃない」  矢部は伸子を見てニコリとした。そういう時、矢部はひどく子供っぽく見える。 「そうかなあ」 「この人みたいな馬鹿になることはないけど、もう少し単純明快に物事を見たほうがいいわよ」  伸子は社長だか専務だかの秘書をしている。だから同年輩ぐらいの男達を高圧的に扱う手を知っている。反撥《はんぱつ》されないように、たっぷり色気を使う。それで相手は胡麻化される。 「そういうもんかな。じゃ矢部氏はこれからどうする」 「とりあえず、私あしたから休暇とるの。この人、すぐまた動き出すでしょ。暇なのはちょっとの間ですものね」  みせつけるように矢部によりかかる。でも言ったことは本心だった。どうするのか見当はまるでつかない。すぐ矢部が激しく動きまわることだけ、はっきり判っている。そのうち、とてつもない仕事にぶつかるかもしれない。なんとなく、爆弾みたいな男だから。その進展次第では、結婚してもいい。不発弾じゃ困るが。そう計算している。  いちばん赤い顔になったのが、グラスをあげてウェディングマーチをやった。 「これでお別れだな。呑めよ」  矢部は白けるような生真面目さで見廻し、酒をすすめた。 「よし俺たちがもう一本買う」  千円札が奥の席から順に一枚ずつ出て、丁度五千円。矢部は淡々と手をあげ、すぐ近くにいたマネージャーを呼ぶ。 「オールド」  マネージャーとは古いつき合いだ。払いっぷりのいい客だが、それ以上に気が合うらしい。深く話し合ったこともないが、はじめっから矢部を特別扱いしてくれる。それが、五千円受取って、 「ちょっと、矢部さん」  と言い、目顔で来いという。つれ立ってカウンターヘ行くと、プラスチックカードにパンチを打ちこみながら、 「矢部さんとこ、電話あるんでしょう」  と訊《たず》ねる。ある、と答えると、ボールペンとメモを引きよせて、教えてくれ、という。 「そうか」  矢部はツケたりした時のためかと思い、あっさりアパートの内線を教えた。会社をやめたのを聞いていたのだろう。カードのぶらさがった黒くて丸っこいウィスキーの瓶を受取って、席へ戻った。  それから呑んで、しつっこいのを適当に撒《ま》いて、今度は伸子の顔のきくバーヘ廻る。その夜の伸子は甘え放題、といった感じだった。 「あした、仮病つかっちゃう。いいかしら」  帰りの車の中で、伸子はそう言った。十一時半で、運転手がふてくされている。矢部のアパートは高円寺だ。  部屋へ入ると、伸子は案外酔っていず、小まめにあたりを整頓しはじめる。鉄筋の四階建てで、その三階の1DKだ。シャワー室がついている。 「どこへ行ってたの。埃りだらけじゃない」  シャワーを浴びて出て来ると、伸子がズボンをハンガーにかけているところだった。 「グランドヘ行ってた」  すると、伸子ははっとしたように首をあげた。 「そうだわ。あそこへ行くにきまってたんだわ」 「お前に判るのか」  タオルで頭をふきながら言うと、 「そうね、あなたはサラリーマンじゃだめなのね」  と、しんみりした言い方をした。ポイ、とタオルを放り出し、うしろへまわって伸子の両脇に手をさしこんだ。首筋にキスする。こいつ、案外判ってやがる。可愛かった。立たせたまま、うしろから手がバストを探る。おしゃれで、だから最近はずっとノーブラジャー。きりっと、少し烈しすぎるくらい突き出しているのを、下から持ちあげるようにする。白い耳たぶ。その下の骨ばったあたり。キス。這いまわる。 「ねえ、シャワーを」 「駄目だ」  そう言っておいて、軽々と抱きあげる。伸子が首へしがみつく。唇と唇。そして舌。抱いて、そうしたまんま、歩きまわる。カーテンをしめてまわる。セミダブルの上へ置く。伸子は目をとじて、イアリングを外す。両手を使って、左右いっぺんに取る。矢部に渡す。オーバーナイターの上へ置く。ストッキング。スカート。ブラウス。順に矢部が剥《む》いていく。灯りが煌々《こうこう》とついた部屋の中。 「もし宇宙人みたいな奴らが地球へ来たとする。そいつら、俺らがヒヨコのめすおすの区別が判らないのと同じで、人間のめすおすが判らない。どうすると思う」  ちっぽけなパンティ。白い肢をくぐって、スカートの上にのる。 「どうすると思う」  伸子の両手が動いて、掌で顔をかくす。そろり、と見事な肢がひらく。へこんだ腹。栗色のかげり。矢部がじっと見おろす。 「馬鹿。これ、答えのつもりか」  へこんだ腹がこまかく波うつ。笑っているのだ。苦笑して、答えのあたりをまさぐりはじめる。 「教えてやろうか。平和という液体をつめた試験管にいれるのさ」  ゆっくり横になる。伸子が顔から手を外す。薄目で矢部をみつめ、眉を寄せている。ときどき下唇がひくりと動く。熱く濡れた中を、矢部の指先が散歩しているのだ。 「どうなるの」  嗄《しわが》れ声。そのあと吐息。目をとじて、深い所の感覚をたのしんでいるようだ。 「五分間、人間をその中にひたして、ひきあげる。爪さきから腐りはじめているのが男で、元気のいいのが女さ。すぐ判るよ」  体の向きを変え、矢部の肩に顎を当てる。上体をくねらせ、双つで胸を擽《くすぐ》る。それで、自分もたかぶる。 「平和じゃだめなの」 「ああ」 「ここは平和よ」 「平和じゃないところを探すさ」 「ねえ」 「何だ」 「私を平和じゃなくして」  胴を抱いて、伸子は体を押しつけて来た。だが、伸子は呆気《あつけ》なく平和をとり戻した。矢部に侵略されたまま平和になり、そしてまたすぐ平和でなくなった。矢部は侵略者として、何度も伸子に平和を与えた。一度シャワーを浴びて汗を流したあと、また別な方法で侵略され、明け方近くに、やっと長い平和をとり戻した。   サラバンド・さらば北珊瑚礁《ノース・リーフ》  北珊瑚礁《ノース・リーフ》。  それはトンキン湾の外側にある小さな珊瑚礁である。香港=バンコック・ルートを飛ぶ商業機は、中共領空を避けて一旦この地点まで迂回し、ここからインドシナ半島の南側へ向う。  盛夏であった。鋭い熱気を放つ空と海と珊瑚礁。その上空で、いま黄色い帯の入ったマレーシア航空のコンステレーション機が、右に旋回をはじめようとしていた。  古ぼけた貨客混載の不定期便《トランパー》の客席で、バンコックヘの入国届《D/Eカード》を書きおえた矢部直也の肩を、となりに坐っていた若い男が軽く叩いた。 「あれが北珊瑚礁《ノース・リーフ》です」  窓を覗《のぞ》くと、南海特有の透明なライトブルーの中に、真珠の粒を置いたような珊瑚礁が見えていた。 「ほう……」  矢部は低い嘆声を発し、ガラスに額をつけるようにしてその景色を眺めた。香港の李万殖が、ぜひ見て置くようにと言っていたのが、この景色であった。 「私たちはいま、戦場のへりをまわっているのです」 「あの珊瑚礁が戦争と平和の境い目なんだな」  その右舷《うげん》にひろがった空の下には、果てしない殺し合いの続くベトナムの戦場がある。そして商業機は北珊瑚礁を境いに、その内側の空を決して飛ぶことがないのだ。 「この上を飛ぶたびに、不思議に思います。戦争と平和の境い目に、どうして、こんな美しいものが置いてあるのか……」 「ナム君の育ったところは、今どうなっているんだ」  矢部が訊ねると、澄んだ瞳と端正な面ざしを持つベトナム青年は、照れたような微笑を浮べて肩をすくめた。 「知りません」  矢部はあらためて眼下の美しい景色をみつめた。こちら側には男を腐らせる、あくどい平和がある。向う側は男たちの死ぬ戦場がある。ナムが言ったように、その接点になぜこのような簡潔な美があるのだろうか。李が見ておけとくどくど言った意味が判るような気がした。  ここが戦場への正面玄関だとすれば、矢部たちはいまその裏口へまわりこもうとしている。北珊瑚礁《ノース・リーフ》を見たことはキックオフを意味する。眼下の珊瑚礁がひとつの象徴となって彼の心に焼きついていくようであった。  旋回が終り、急速に後方へ去って行く真珠の粒を見送りながら、さらば北珊瑚礁《ノース・リーフ》よ、と矢部は柄にもなく心の中でつぶやいた。  思えば奇妙なめぐり合わせであった。  行きつけのバーのマネージャー……。ただそれだけの縁で、行き交う人世の一点景でしかないと思っていた人物が、彼をとてつもない世界へ導く案内役だったのである。  あなたのような男を探している所がある。……電話をかけて来てただそれだけを言い、強引に池袋のパチンコ屋の二階へ連れて行かれた。  そこには愛想のいい老中国人が待っていて、矢部の顔をみるなり、 「戦争をする気がおありですか」  と切り出した。「荒っぽい事のできる人を探しているのですが」 「は……」  流石《さすが》に意表をつかれた。その老人には一種の貫禄のようなものが備わっていて、矢部は自然に目上に対する姿勢をとっていた。「仕事の種類によりますが」 「最初は密輸です」  老人はにこやかに物騒なことを言う。その言い方が矢部の琴線に触れたようであった。 (こいつは面白そうだ)  そう思いながら、相手の目をみつめていた。向うもそらさずに見返す。澄んでいる奥が読み切れない。謎めいた瞳である。 「小細工は苦手です」  しばらく見合ってからそう答えた。老人は感じのいい笑顔を浮べた。 「会社におつとめだったとお聞きしています」  事情を知っているのだ。「小細工は要りません。新しい密輸ルートを開始するのです。かなり重要な仕事です」 「どの方面です」 「私の役はここであなたを口説《くど》き落すことです。くわしい説明は許されていませんが、アメリカとたたかっている側、とだけ申しましょう。やりますか」  イエスかノーか。ノーならこれ以上カードは見せない。口説き落す役というが、それにしてはあっさりしていた。要点をずばり持ち出して、あとはくだくだ言わない気である。  矢部はふと部長を思い出した。要点をあいまいにしたまま、まわりくどい説明をする男だった。合間に説教まで入れて、自分ではそれを脇道にそれたなどと気づきもしない。人間の格……それがまるで違っているように思える。それに、アメリカとたたかっている側というのも気に入った。 「やりましょう。いつからです」  中国人は軽く天井をむいて笑った。 「昔の日本陸軍に、あなたに似た人がよくいたものです」  そう言いながら机をまわって握手を求めた。小さな手であった。 「ではお願いします。念のためあなたを調査させていただきますが、よろしいですか」  矢部は嬉《うれ》しそうにうなずいた。調査の手を尽してから本人を呼び寄せるのは、たしかに合理的だし安全度も高い。だが、大事をまかせる者にそれでは礼を失するし不信の種にもなろう。承諾してから堂々と調べるほうがずっと筋も通るし、第一男らしい。 (どうやら望んでいた世界らしい)  そう思った。  だが、それは複雑な迷路のような世界でもあった。或る時は右翼団体の事務所へ、或る時は衆議院の議員宿舎へ。そして或る時は通産省の外部団体へ……。矢部は張りめぐらされた見えない網の目をつたって歩きまわり、とうとう香港へたどりついたのである。  どうやら、そのひとつひとつが新しいルートの開拓ということであったらしい。結局バンコックのタイ系華僑|鮑《パオ》汪烈と、香港の李万殖、それに東京の剛田起三郎が、このルートのかなめになっていることが判った。香港の銀行家李万殖のところへ着いたとき、仲間は矢部を入れて五人に増えていた。そしてそれにベトナム人のナムが加わり、総勢六人のチームが、いまこのレシプロの不定期便《トランパー》に乗り込んでいる。  バンコックの鮑とは東京のヒルトンホテルで会っているが、彼らに共通することは恐ろしく話が早いことであった。  言葉はその人間の意志。……この単純な原理が強烈につらぬかれている。笑えばおかしいのだし、約束を口にしたら決して破らない。矢部の性分はもともとそういう社会に合っているので、すぐに同化できたが、それにしても当座は幾分勝手の違う思いをした。  相手の言葉尻をとらえても、テープにとるかタイプしてサインさせるかしなければ、鼻のさきで笑って逃げられてしまう社会から見ると、このほうが余程住みいい。……矢部以外の者も、そういう腐った平和社会に嫌気がさし、ほんものの男の仕事に憧《あこが》れていた連中ばかりだった。 「北は戦争に勝つと見きわめたらしい」  ヒルトンホテルで鮑と初対面の挨拶を交したあと、見事な白髪の剛田起三郎がそういった。一度通産大臣をやったあと、あっさり引退してしまって、世間では名さえ忘れかけている人物である。 「そのあとの経済復興を考えているのですよ。アメリカの経済的なしめつけをどうはねのけるか……再内乱でも起されたらなんにもなりませんからね」  鮑は流暢《りゆうちよう》な日本語で言った。そのときは、まだ矢部ひとりだけだった。「中共の窓口になるのはさしつかえないが、中共を窓口にするのでは困る。もちろんソ連も具合が悪いのです。自分たち独自の力で復興しなければ、長い間大きな犠牲を払いつづけて来た意味がなくなってしまう。……向うではそう考えているのです」  勝利の見とおしがついた今、将来を見こして日本に具体的なつながりをつける必要があった。もちろん、北と日本との間に道がないわけではない。しかしその道はとかく薄暗く、どちらかといえば汚れた手によって保たれている。ワンクッションもツークッションもしているのを、この際一挙に直接取引に持ちこみたいのだという。しかしそれは現状ではとても無理な相談である。  そこで考え出されたのが、新しい裏口ルートの開拓であった。 「いま、北との間にはろくな人脈がない。そこで我々が駆り出されたのだ。しかし、この齢になって密輸の片棒をかつごうとは思わなかった」  剛田起三郎は少し秘密めいた笑い方をした。面白がっているようでもあった。 「はじめは細い糸のようなものです。しかしいずれロープになり、そしてサイゴンから堂々と東京へ渡る、立派なパイプになるでしょう」 「君の使命はその最初の細い糸をつなぐことにある。問題はごく簡単だ。医薬品を少しばかり持って行って、北から出て来た連中に渡せばいい。北にとってそれほど緊急な物資ではないし、あれば越したことはないという程度のものだ。要点は渡すことにある。成功したら徐々に定期化する。それで糸がロープに化ける。あやふやな道でなく、固い道ができる。もちろん、北が完全に勝利を得たら要らなくなる道には違いないが、その時には両方に肚の判った人間がかなり生まれていることになる。人脈が出来上っているわけだ。北はアメリカの軍事援助で腐ってしまった南の人脈に頼るような事態を嫌っているのだな。賢明だ」  鮑は誠実そうな顔を少し曇らせて言った。 「必要悪ということがあります。この場合、それが麻薬です。あなたは医薬品の代金として生阿片を受取ります」  うまい手だった。それなら、万一の事態になっても北側の真意は毛ほども覚られずに済むに違いない。どこかの小汚い野郎どもが人の弱味につけこんで、うまい汁を吸っているようにしか見えない。ただし、そういう世界と無縁だった奇麗な手の剛田や鮑が、相当なリスクをしょい込むことになる。 「よく知らんが、手に持つだけで危険なものだそうだな」 「剛田さんのおっしゃるとおり、危険なものです」  鮑は矢部に訓すように言った。「黄金より危険です。ましてそれが北からの新しいルートで出て来るとなると……」 「狼が出るそうだ」  剛田はからかうような言い方をした。 「あのあたりは昔からいくつものルートが入りくんでいます。トルコ、イラン、レバノン、それにパキスタン……私らも全部を知っているわけではありません。そのどれひとつにでも、今度のことが知れるとうるさいことになります。東行き西行きの両方に最短のルートですからね」 「まあ、そういう事態にはなるまいが、一度警報が鳴ったら命を投出す覚悟をしてもらわんといかんな」  剛田の顔から気楽さが消えていた。現に鮑の部屋の両側は、それぞれ剛田の部下が泊り込んでいるし、この部屋を訪ねたときも、その一人が盗聴器のチェックをしたほどであった。矢部にはそういった事柄のかもしだす緊張感が、この上もなく美味なご馳走《ちそう》に思えていた。  ふと気がつくと、コンステレーション機はいつの間にかジャングルの上をとんでいる。時々岩山が緑の中から裸の肌をみせ、そしてジャングルは際限なく続く。  機内を見まわすと、仲間が二人ずつ組になって坐っている。河合義行。高木章。吉村明夫。関口伸介。河合は商社マンでタイには相当詳しい。高木は広告代理店のカメラマンをやっていた冒険好き。吉村は製薬関係の技術者で登山家。関口は体育の教師で柔道三段。どれもこれも平和な社会からはみ出しがちなのを、辛うじて自制していたといったタイプの行動派である。酒を呑むたび饐《す》えたような平和を呪い、身のまわりの男どもをかたっぱしからこきおろして憂さを晴らしていた。  それが拾われて集った。望みどおりの生き方を与えられ、仕事の細部が明確になるにつれて、顔つきが変っていった。虚無的だったり険しかったりしていたのが、かえって温和で快活になったのだ。  河合と高木は睡っている。吉村はガイドブックらしい本を読み耽《ふけ》っている。関口は飽きもせず窓の外を見ている。それぞれにたのもしかった。ただの拗《す》ね者たちではなさそうである。 「日本には切腹ということがありますね」  ナムが唐突に言い出した。日本語と英語とフランス語、そしてベトナム語、中国語。ナムはそのどれをもなめらかに使う。 「うん」 「いま考えていたのですが、あなたがたはそれに美しさを感じるのだそうですね」  矢部は少し考えてから答えた。 「行為として、だな。見たことがないから判らないが、形そのものは美しくはないだろうな」 「でも美を感じるんでしょう」 「いさぎよい、男らしい……生き方の問題としてだ」  ナムは微笑した。 「死に方で生き方が判るのですね」  矢部は苦笑する。 「まあな。武士道という奴だ。ベトナムにも焼身自殺があった。美しいと思うかい」 「問題は残りますが、やはり美を感じました」 「すると同じようなことか」 「北珊瑚礁《ノース・リーフ》が美しいのは、切腹のような美しさかも知れませんね」 「え……」  矢部は意表をつかれてナムの整った顔をみつめた。 「切腹というのは、つまり……うまく言えませんが、やはり戦争と平和の境い目にあるのでしょう」  ナムは瞑想《めいそう》的な表情で言った。 「なるほど。戦いの勝負もきまらないのに、その最中に切腹する奴はいないな。いたとすれば卑怯者と言われるだろう。切腹は戦争が終る時か始まる時と相場がきまっている。そういう時、美しいと見える」 「それ以外は自殺でしかないのではありませんか。もし僕の考えているとおりなら、北珊瑚礁《ノース・リーフ》の意味が判るのですけど」  ナムは恥かしそうに左手で眉の辺りをこすりながら言った。 「むずかしい問題だな。君はよくそんなことを考えるのかい」 「人の死ぬのをたくさん見ると、死ぬことや生きることについて、いろいろ考えてみたくなるのです。さもなければ何も考えないか……明日のことも」  厳しい経験にちがいない。自分がそうなったら、どっちになるだろう。死や生について哲学的な問題をかかえこむか、明日さえ考えない男になるか。どちらとも判らなかった。  窓の外に蛇行した水面がいくつも見えはじめていた。メコン支流の数々だろう。ジャングルはやがて湿地帯の様相を見せはじめ、部落らしいものが点在する。  黙ったまま、また時間が流れた。風景が濃い緑から赤褐色に変っている。無気味なほど赤い色の平地がひらけていた。狭い水路が縦横に走り、その交点が大きな池になっていて、樹の繁みにかこまれている。しかし美しい風景ではない。水といえば青を連想する日本人にとって、呆れるほど赤茶色に染まった水が、それらの繁みを映すこと自体、まるで不思議に思えるのである。……そんな平地の中を、人工のものだぞと念を押すように、細い道が一直線に伸びていたりする。  突然|操縦席《コツクピツト》との境いにある、バーの看板ほどの大きさの標示板にサインが灯る。エンジンの音が変って、客席がざわざわと目覚める。上昇中の水蒸気の層とすれ違い、窓は湯気をかけたように曇る。そしてそのたびに、機体はブリキの箱が跳ねあがるように揺れる。すぐうしろに世帯じみた様子の中国人夫婦がいて、細君のほうが喉で嫌な音をたてる。夫は黄色い声をあげガサガサと紙袋を用意しはじめた。それを、疲れたようなスチュワーデスが見ないふりをしている。  下界は見ただけでうんざりするようなカンカン照りであった。いちめんの水田で、草いきれが匂って来そうだった。水路《クリーク》が無数にあり、所々に水牛の姿が見える。小さな舟がのんびりと動き、時々エンジンつきらしいボートが、色のついた日傘をのせて走って行く。高度がいちだんと下り、水牛の背に子供が乗っているのまで見えた。  その時、視界の半分を奪っていた主翼が割れ、フラップがゆっくりと下った。こぼれたオイルでてかてかになったエンジンの辺りから、雨の中を通った時のように水滴がとび散っている。上昇する水蒸気のせいだ。  背筋が反りかえるような感覚が襲い、高床式の庇《ひさし》の大きな民家が迫って来る。もうすぐ着陸《ランデイング》らしいが、翼で前が見えない。そう思った瞬間、窓の下に黒い縞模様《しまもよう》が二度ばかり、ササッと通りすぎ、機首が上るときのふわっとした感じになった。  右がさき。左があと。そしてまた右……余り上等な着陸《ランデイング》ではない。しかし、レシプロだからそのあとの滑走は呆気なく、逆噴射《リバース》の物凄い騒音もない。機内の温度がひどく高くなっている。  ランウェイとタキシーウェイの間の湿地で、女達が泥をかきあげていた。長袖の黒シャツに長い腰巻き、跣足《はだし》。 「よう、また来たぜ」  河合が窓の外へ向ってそう言っていた。バイパスを折れてタキシーウェイに入ると、進入方向と逆になったので、ターミナルの建物が見えなくなったかわり、よく手入れされた木立ちごしに軍用滑走路が見えた。木立ちの切れ目から迷彩をほどこした軍用機や、万年筆の化け物のような窓のない四発ジェット機が見える。尻に長い棒を突き出しているから多分空中給油専用機だろう。  停るとすぐゴトン、と音がしてドアが開いた。うしろの中国人夫婦が呆れ返るほどたくさんの荷物を持ち込んでいて、その数を大騒ぎで勘定し、タオルで結び合わせている。矢部は上野駅へ着いた夏の日を連想した。  そういえばよく似ている。特急から降りる晴れがましさはまるでない。到着の機内アナウンスさえ省略されている。 「不定期便《トランパー》だとバスも来やがらねえ」  東京とバンコックをのべつ往復している河合が大声でぼやく。大荷物の中国人夫婦にひきくらべ、矢部たちは大ぶりの青いショルダーバッグひとつである。六人ともサングラスをかけ、むっとする空気の中へ出た。  すぐ近くに古ぼけたレシプロの艦載機《かんさいき》が四機、翼を上へ折り曲げて並んでいる。そのとなりに、これも古びた汚ならしいDC3が二機。一機はシェル、一機はスタンダード・オイルのマークをつけている。  それでも、ベージュのユニフォームを着たグランド・ホステスが迎えに来ていた。ほっそりとしたプロポーションの典型的なタイ娘で、艶のない茶色の肌に、できものの跡が幾つもちらばっていた。十四、五人の乗客が、みじめったらしくそのあとについて行く。そこへ四発の軍用ジェット機が、高い方向舵《ほうこうだ》を震わせてタキシングして来る。軍用だから消音装置もなく、殺人的な轟音である。矢部たちは交差点の赤信号よろしく停められ、グランド・ホステスがそれに背を向けて耳をおさえ、乗客の眼の前で年頃の娘にあるまじき悪たれた顔をして見せた。軍用機の窓から、スティーブ・マックィーンに似た米兵が、粋なサングラスをかけてこちらを見おろしている。 「断っとくが冷房はないぜ」  建物の近くにたどりついたとき河合がそう言った。なるほどスタンド型の巨大な扇風機がひとつ、いやいや首を振っているだけであった。 「こいつはサウナバスの匂いじゃねえか」  高木が言った。  入国届と検疫を済ませ、税関に向う。ショルダーバッグだけだから一番のりだった。税関のだるそうな顔をした男は、疑わしそうな表情になって、荷物はこれで全部か、と訊ねた。ひどく訛《なま》った英語で、矢部よりだいぶ下手だった。呼吸を心得ている河合が、俺たちは旅慣れているんだ、と言うとはじめて白い歯を見せて笑い、オーケー、と手を振った。  六人がぞろぞろ出て行くと、すぐ傍にJALの制服を着た男がいて、不定期便《トランパー》で来た彼らを胡散臭《うさんくさ》そうに眺めている。矢部が日本人同士の笑顔を見せると照れたようにそっぽを向いてしまう。  河合が両替所へ行っている間、外のロビーに眼をやると、仕切りのガラス越しに大勢の中国人がかたまって騒いでいた。さっきの中国人夫婦を出迎えに来ているらしい。 「やれやれ」  高木が短く刈った頭を掻いた。 「どうしたんだ」 「スポンサーの出迎えに何度も羽田へ行ったもんさ。アメ公から見るとあんな風だったんだろうな」  ロビーには迷彩服を着た男達がうようよしている。 「ヘリのパイロットですよ。休暇なのです」  ナムが静かな声で教えた。矢部は一瞬ひやりとしてその顔を見た。  ロビーを抜け、三人ひと組に、二台のタクシーをつかまえた。 「トロカデロ・ホテル」  矢部が言うと、 「フォーティ・バーツ・サー」  とイギリス貴族のような発音が返って来た。河合がそれを三十バーツに値切る。ナムがうしろの車の連中に、指を三本出して教えてやる。 「アメリカ人だと、あの発音をされると値切りにくくなるらしいんだ。だからみんな一応あれをやるんだよ。あとの会話はひどいもんさ」  走り出すと河合がそう言って笑った。  ドムアン空港から市内まで約三十分。タクシーはほとんどブルーバードだ。それをお祭りのように飾りたてている。それにプリンスをよく見かける。大事に使っているのだ。 「この道を居ねむり街道と言うんだ。熱くて平坦で直線が多いからな」 「カアツアアラアイ・クウン・ルウー」  前のシートにいるナムが運転手にはなしかけた。 「ナム君はタイ語もやるのか」  河合が驚いて訊ねる。 「少しですよ」  ナムはふり向いて答えた。運転手はナムに早口でまくしたてる。道ばたに横転していたトラックのことらしい。人がたかって警官の姿も見えた。  どことなく北関東の街を思わせる市内へ入るとすぐ、ナムは車を停めさせて降りた。日本人の五人づれは珍らしくないが、それにベトナム人が一人混っていると、気にする者もいるだろう。李万殖の配慮であったが、ナムはそのほかにも何か指示を受けているらしい。あっという間に人ごみに消えて行った。 「ナムは使える」  うしろ姿を見送って河合がそう言った。小柄で細い体をしているが、いつも冷静でストイックな雰囲気を漂わせているところは、なんとなく一芸の達人という感じだった。  トロカデロ・ホテルはバーやキャバレーの密集しているニュー・ロードにあった。古いだけが取《と》り柄《え》といった小さなホテルで、サムロと呼ぶ軽三輪のタクシーの音がひっきりなしにロビーヘ聞えて来る。鮑はそこのソファーで新聞をひろげていた。半袖のホンコン・シャツにノーネクタイ、青いトロピカルのスラックスに白靴といったいでたちで、一行が入って行くと値ぶみするような眼で眺めまわした。矢部以外とは初対面である。 「紹介はあとでゆっくりしましょう。それより矢部さんに話があります」  鮑は浮かぬ顔で言い、肩を押すようにして一階の奥にあるバーへ連れ込んだ。いちばん隅のテーブルに陣取ると、鮑はビール、矢部はジン・トニックを注文する。 「何かまずいことでも……」 「ええ。ついさっき香港へ連絡しました」 「すると……」 「そうです。警報です」  鮑はじっと矢部をみつめた。予期していたが、着くそうそうとは早すぎるような気もした。 「計画の変更は」 「まだ情勢がよく判らないので……こっちでもついさっき探知したところです。何かよく判りませんが、とにかくその方面に我々の噂が流れたということです。それしか判っていません。残念です」 「どの程度の噂ですか」 「日本から買付人が来るという話です」 「買付人……」 「ええ。いきなり阿片の話になっています。これは危険な兆候です」  鮑はうつむいて低い声で喋った。「買付人が来るというのはかなり大ごとを意味しています。タイの密造組織はもうはっきり地図がきまっていて、買付人など要らなくなっています。どこはどの組織に売る……縄張り、ですか。それがきっちりきまっているところへ、全く新しい買付人が来るというのは、そのグループが撲り込みをかけるということになります。調べればあなた方がどのルートにも属していないことがすぐ知れますからね。横にこまかく割れたルートが、それぞれびくついているはずです。撲りこまれるのはどこか……知りたがっています。あなた方がどこへ動くかで、反応を起す連中がきまるわけです。下手をすれば寄ってたかって阻止しようとするでしょうね。しかも悪いことには、我々の目的が全く新しい相手だと知らせるわけにはいきません。誰かが影に怯えて引金をひくことになりかねないのです。どこかがいじめられているということになると、そのさきは思惑でいっぱいです。どれを潰し、どれを救《たす》けるか。みんながそれぞれの思惑で動きます。そうなったら手がつけられません」  矢部はほんの少し考えただけで言った。 「ここの連中全部が相手でも、やらないわけにはいかないでしょうね。先方はこっちへ向いているんでしょう。最初から約束を違えるわけにはいきませんよ。いまはお互いの信用を築くのが先決です。五人が皆死んだとしても、約束を守るために死んだことが判ればそれで役目は果せます。日本には僕らのかわりはいくらでもいるんです」  鮑は無意識のようにビールを飲んだ。タンブラーを置いて矢部をじっとみつめる。 「なるほど。やっと日本人が来てくれたようですね」  矢部のはらわたへしみ込んでいくような瞳の色であった。 「私の父はことし七十三になります。その父は昔の日本人を尊敬しているのです。この前の戦争で日本はアジアの悪者になってしまったが、それは敗けたせいだ。そう言うんです。いまの日本はこの国で稼いでいるだけで何も持って来てはくれないが、昔の日本人は希望を持って来てくれた。タイもラオスもカンボジアもベトナムも、とにかく一応はあの戦争で自分たちの国をとり戻した。それがアメリカに敗けてから日本人は変ってしまったのだとね」 「昔の日本人はそういうように見ていてくれる人もいたんですか」 「私は父のいう昔を知りません。しかし、強いという印象は持っています。いずれは手を組む運命に結ばれた人々……そういうように感じているだけに、余計今の無神経なエコノミック・アニマルぶりが気になるのですが……。いや、これは横道にそれました」  鮑は丁寧に頭をさげた。 「それで具体的にはどうします」 「そういうお考えでしたら、万事おまかせします。情報はなるべくこまかく提供しましょう。段どりも全力をあげてやります。荷のほうはあと二日でトンブリの保税倉庫に入りますから、そのほうはまかせてください」   メヌエット・俺たちに何かが足りない  拳銃《けんじゆう》。S&W38口径。不細工だが引金を引けば実直に弾がとび出して行く奴。ガヴァメント・コルト45口径。とびきりの破壊力を持ったオートマチック。但しときどきへそを曲げてジャミングを起す暴れん坊。両方ともかなりの中古で、それぞれボール箱に一杯ずつの弾がおまけについている。  新品の、ピカピカ光るブローニング・ショットガン。五連の鹿弾。室内や至近距離なら持っているのを見ただけで気絶しちまう威力を秘めている。見さかいのない殺人狂だ。  サブマシンガン。マシンピストルと呼んだほうが似合う扱い易い奴。ちょいと旧式に属し、米降下部隊の制式銃だった昔を懐しんでいるような、いわば中年男。三十発入りのマガジンが四本ついてお値段は格安といった具合で、それが二挺。別にB ・《ブローニング・》  A ・《オートマチツク・》  R《ライフル》。サブマシンと呼んじゃあハイカラすぎる。軽機と呼んだら気に入ってもらえるだろう。とっくのとうに廃物になっているはずのが、どこをどう生きのびてか二十発入りのボックスマガジンがズックの弾帯のポケットに三本ずつ入って、その弾帯が三本。ずしりと重いしどでんとでっかい。が、その実大した腕ききで、脚を立てれば遠射がきくし、だっこしてやれば速射性能もかなりのもの。あとは刃渡り二十センチの米軍装備のハンティングナイフだ。さやなしで、むき身のまんま。しかもブラック・ブレードと来てるからいっそうこわもてがする。  そいつらが、ガタガタの木のテーブルにぶち撒けてあって、五人の日本人がそのまわりに突っ立ったまんま、さっきからうんともすんとも言わないで眺めていた。  運んできたのはナム。場所はバンコックの西南のはずれ。マハチャイヘ向う鉄道線路が南へ大きく折れ曲るあたり。トンブリ地区にあるクラン・クロン寺にほど近い川岸に立った乞食小屋のようなみすぼらしい建物の中だ。外に小舟が一艘《いつそう》もやってあって、植物の皮が水に浸ってぬるぬるしはじめた時のような匂いが、磯の香といっしょに風にのってくる。時間は夜の九時ちょっと過ぎ。月もなく、近くに灯火もない。小屋の中にボッ、ボッと不規則な音をたてる石油ランプがひとつ、男たちと彼らの大好きな人殺し道具を照らし出している。  事実男たちが黙って見つめているのは、それにみいられてしまったからだ。恥かしくさえなけりゃ、かたっぱしから手にとって頬ずりして、あられもなく呼吸を乱したりするところなのである。  ひとりだけ、その輪の外で心配そうな顔をしているのがナムだった。 「あのう……」  それがこのベトナム青年の持ち前で、ひどく気弱な声を出す。みんながその顔を見た。 「古いものばっかりで……」  すいませんとあやまりたさそうな表情だ。が、誰ひとり、哀しいことに五人の若いますらお誰ひとり、そんなこと思っちゃいなかった。弾のとび出す道具を、これほど間近に見たことなんぞありはしないのだ。だからどれが古くて、どれがどんな味を持っているのか判りゃしない。持って、ぶらさげて……そう思っただけでうっとりしちまってる。「もっといいものをと思ったんですけど、これだけしきゃなかったものですから」  ナムは言いづらそうだった。 「さて、誰がどれを使うかだ」  関口がはずんだ声で言い出した。 「順に好きなのを取ろう」  誰の声だったか……言ったとたん一度に手が伸びて、別にとり合いが起るわけでもなく、すんなりめいめいの道具がきまった。  関口がショットガン。河合と高木がグリースガン。オートマチックを吉村が腰のベルトに素早くぶっさして、リーダー格の矢部がレボルヴァーだ。どういうわけか、いちばんでっかいB・A・Rが残った。みんな遠慮して、ナムが集めて来たんだからと、その見るからにたのもしいのをとっといたらしい。 「それに各自ナイフを」  矢部に言われてまた手がのびる。金属の触れ合う音がしてめいめいの手に渡る。 「きまりましたね」  とナムがいう。 「切れねえな、あんまり……」  関口はダミ声で、刃に指の腹をあてながらいう。ナムがその顔を怪訝《けげん》そうな表情で見た。見られてニヤリとし、 「どれ」  と関口はとなりの吉村を肘《ひじ》でどかせ、刃のほうを掌にあてて、小屋の入口の板の壁へ狙いをつけ、ナムが低い制止の声をあげるのといっしょに、かなりの力で投げつけた。ナイフは壁に平行にぶち当って、バタンと床に落ちた。……のそのそとそいつを拾いに行く背中へ、ナムの少し憤ったような声。 「駄目ですよ。さきを折ったら使いものにならないじゃありませんか。これは切るものではなくて、刺すものなんですから」  関口はふり向いて舌を出した。はしゃいで叱られた子供みたいだった。 「さて、それじゃ船に乗ろう」  矢部はとりなすようにそう言った。ホテルヘ帰って道具を然るべく偽装した荷物にしまい、明日一番の汽車で北へ向うのだ。行くさきはコンケン。トラック三台分の荷は、そこまで鉄道が運んでくれる。しかも米軍の有蓋《ゆうがい》貨車でだ。鮑は奇麗な手の商人だが、いざとなればそのくらいの芸当は簡単にやってのける男でもある。  みんなぞろぞろ出て行って、矢部とナムが残った。矢部はナイフをどこへしまったものかと、無意識にいじりまわしながら考えていた。気がつくと、ナムの視線がその手の動きを追っている。 「なんだい」 「いえ、なんでもありません。ただ、日本のみなさんは、ナイフが苦手なんだなと思って……」 「どうして?」 「見れば判りますよ」 「そうか。見れば判るのか」  そう答えてから、はっとした。新入生が来る。ボールをひょいと投げて渡してみる。その受け方、いじり方、それだけで判ったものだった。肩の揺らし方、腰のつかい方、走り方……いや、ジャージーを着させ立たせただけで、どのくらいやれるか見当がついた。それとおんなじことを、ナムが言っているのだ。ナイフを持つ。殺すために持つ。……そんな経験など、五人のだれも持ってやしない。いや、日本中の若いのが、自衛隊の奴でさえ。真剣勝負の場数などこれっぱかりも積んじゃあいない。それをまるで忘れていた。足音のしのばせ方。這い方。逃げ方。そういえば、肝心なことはなにひとつ、これがプロだといえるものを持ってはいないんだ。さいわいレボルヴァーを取ったからいいようなものの、グリースガンの安全装置の外し方ひとつ知らないんだ。ましてこのでっかい大砲みたいなB・A・Rなんか、敵が目の前に来たって、果してうまく撃てるかどうかだ。矢部はナムが急にでっかい男に思えて来た。  タイの地図は、マレー半島までいれると象の頭に似てる。マレー半島を鼻に見たてて、その耳のところのどまん中。コンケンはそこにあるちょっと大きな街だ。バンコックの東北。象の耳をつきとおすようにそのまんま北上すると、鉄道は国境のノンカイで終点になり、越えるとすぐビエンチャンだ。メコンの川向うにラオス一の大都会がある。そのだいぶ手前。コラート高原の中心部に当る。  退屈で、そのくせ一瞬も気を許せない汽車の旅が無事にすんでコンケンに降りたつと、鄭という男のメッセージを持ってチャムロン・ファンチットと名乗る年齢不詳の男が現われた。英語がまるで駄目で、ナムにまかせるよりなかった。  鄭というのは矢部が池袋のパチンコ屋の二階で会った老人の親類、ということだった。たどたどしい日本文で、途中の手配はすべて完了しているから安心しろとあり、目的地までの進み方が、歯がゆいほどのこまかさで指示してあった。一方、鮑の手配は完璧で、コンケンの引込線に入れられた貨車は、滑稽なくらいおあつらえむきに、線路の傍に並べた三台の空トラックのまん前に停っている。  だがすぐ出発というわけにはいかない。雨が降っているし、鄭から届いた予定表にも出発は三日後、となっている。テンポが違うのだ。ここまで来ると生活のテンポがまるで違うし、違えなければすぐに目だつ。歩き方さえ踵を大地へ埋めこむように、ゆっくりゆっくりと意識して歩く。だが、いくら努力して見てもチャムロンのようにはいかない。用がなければ一日中でもじっとして動かない。おっそろしく頑丈な骨格が心になっていて、その上にコンクリートの打ち放しみたいな筋肉がもりあがっている。腰がずしりと据わっていて、遠目には据わりすぎて曲っているように見える。それとガサガサの肌、くぼんだ目……老人だか壮年だか判らない。すぐ村長という仇名がついた。  ここへ来るまでに、めいめい仇名がついている。高木の写真屋、関口の先生、は商売どおりだし、吉村のヒゲもみたままだが、河合のカポネはちょっと難解にできてる。バンコックの靴みがきが、河合にカポネ、カポネと声をかけたからだ。タイ語がそう聞えたのか、それともギャングのカポネに似ているのかよく判らない。しかしそう言えばどことなくカポネづらではある。それにタイの対イタリー感情は昔からひどくいいらしい。日本人がアメリカのギャング映画でイタリー系が出て来るのを見る感じとは、受けとり方がだいぶ違うらしい。友達扱いをしてみている。その分反英感情が潜在しているともいえる。仲がいいと言えば、タイと北欧とは意外に親密だ。木材取引でそういう関係が出来上ったのだろうが、日本人には見わけにくいアングロサクソンとスカンジナビアを簡単に見わけるようだ。ついでに言えば、慣れている河合でさえ、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの各民族を仲々区別できないが、流石土地っ児はひと目で判るようだ。矢部たちがいくら化けようとしても所詮無駄なのかもしれない。  だがそれでも一応のけじめはつけている。衣服はみな古着に着なおしている。日本製と判るものはライターひとつ身につけていない。パスポートは万一の用意に矢部が一括してしまい込んでいるが、普段は持ち歩かないきまりになっていた。どこで野垂れ死んでも身許は明すまいという心意気だ。つまり、新しい晒木綿《さらし》を切って、というあれだ。矢部はいつの間にかそうした仲間から大将と呼ばれている。元はキャプテンという意味だが、大将のほうがみんな口にして嬉しいらしい。バンコックの鮑が社長で香港の李は頭取。東京の剛田起三郎は大臣で通じる。  降りこめられた二日目、体操の先生こと関口伸介が、町はずれの小さな沼に浮いていた。前の晩これじゃ腐っちまうとぼやきながらぶらりと出かけ、そのまんま帰らなかった挙句《あげく》のことだった。  一行の宿は駅のそばの木賃宿みたいなところ。おっそろしくルーズな宿屋で、一人や二人余分に出入りしても判るまいと思えるような安宿だが、その朝チャムロン村長が急に雨の中を出て行って、戻って来ると何かナムに耳うちした。 「矢部さん」  ナムは静かな表情でぬかるみに叩きつける雨脚を見ながら言った。「先生が死にました」 「えっ」  思わず声が高くなり、ひと息もふた息も吸ってから、「どこで。どうして判った」 「朝食のとき宿の連中が話していたそうです。ただ、こっちの仲間だとは気づいていないようです。村長が見てたしかめたそうです。どうしますか」 「行って見る。案内してくれ」 「ほかの人に知らせるなら気をつけてください。警察の取調べを受けるようなことになると厄介《やつかい》ですからね」  矢部は目の前が昏《くら》くなる思いでそれにうなずき返した。皆をあつめてそっと知らせ、騒がぬように注意してから、ナムと二人で雨の中へ出た。ズボンのすそをまくって跣足になって、すげ笠みたいのをかぶってとぼとぼと歩いて行くと、なるほど言われたとおり沼のそばに人だかりがしていた。泥まみれの草の上にうつぶせに引きあげられているのを、物好きが一人一人顔を起してたしかめている。そいつらに混ってナムが同じように右手を死体の顎にあてがって横を向かせる。……たしかに先生だった。蝋《ろう》のような肌色になっていて、まつ毛に泥がついていた。ナムは警官に向って、みんなと同じように恐ろしく無感動な顔つきで、ゆっくり首を左右に振る。頭の上の笠に叩きつける雨音でとぎれとぎれにしか聞えないが、何人かが夢中になって説明している。矢部は先生の死体をいつまでもみつめていた。  小突かれて、ふと我に戻る。ナムが人だかりから少し離れたところへ連れて行き、 「他殺らしいですよ」  と言った。 「他殺……相手は」 「ゆうべもう少し街よりで、若い奴と喧嘩をしているのを目撃した者がいるそうです」 「一対一でか」 「ええ。それで殺《や》られたんでしょう」  沼が雨で白く騒いでいた。向う側の水田と、小さな繁みに囲まれた家が、けむるように見えている。雨の中を自転車にのった女が、よろけながら走っていた。笠に当る雨がうるさい。 「柔道三段だぜ」 「蹴られたんですね」 「蹴られた……」 「キックですよ。この辺の男は子供のときからあれをやっているのです。中には素人ばなれしたのがいくらもいるそうですからね」 「プロじゃあるまいな」 「それも考えておいたほうがいいですね。つけられているのかも知れないですから」  鮑が心配していた。矢部たちの動きをみんなが気にしていると……。それがコンケンで降りて動かないのだ。ひょっとするとこの土地を縄張りにする組織が動いたのかも知れない。麻薬といえば密売組織と思っている日本人に、密買組織の出方が予想できるわけもない。途方にくれてつい、 「どうしよう」  とナムに言ってしまう。 「明日出発でしょう。予定どおりやるより仕方ありませんね」  冷淡すぎる顔で、そっぽを向いたまま答えが返って来る。そのとおり、それしかやり方はないので、愚問もいいところだった。先生の死体をほっぽり出したまま、跣足でぬかるみの中を歩いて帰る。みじめだったし、それに思ってもみなかったほとけ心が湧然《ゆうぜん》と首をもたげ、先生の野辺の送りをしてやらない自分を責める。所詮根っからの仏教徒だったんだ。  そのコースが麻薬地帯のどまん中へ向っているということを知ったのは、もう戻るに戻れないところへ来てしまってからだった。腹の上へのっかってしまってから、相手の鼻が欠けているのに気づいたようなもんだ。ナムも鮑もそんなことははじめから判っているはず……そう思っていたに違いない。いまさらブルって見せたところでわらわれるのがおちだから我慢しているが、こういうことはどこかで誰かが耳うちしてくれるべきだと、恨みがましい思いが絶えない。鮑が心配するはずだ。時々チャムロン村長がナムに指さして教える山かげには、赤い罌粟《けし》の花が咲き乱れる集落がひそんでいるのだ。  コンケンから半分逆もどりみたいな恰好で、ナハサラカンヘ向った三台のトラックは、そこからいよいよ北上を開始し、国境であるメコン川がラオス側へいちばん食いこんだあたり、松茸みたいなラオスの傘のつけ根の部分をめざしていた。  米軍の車にしょっちゅうすれ違う。タイの歩兵を追いこしたこともある。こんな奥へ来ても、コカコーラやセブンアップの看板が目につく。それに、日本では余り見ないが、デイリー・ファームという看板も多い。広告をやっていた高木に聞くと、森永や明治のような会社だという。うまそうなアイスクリームの絵なんかが描いてある。名前は判らないが、沿道には合歓《ねむ》の木のような熱帯樹が多い。その間を黄色というよりは、どぎついオレンジ色の衣をひらひらさせた僧侶が行く。寺院は極彩色で、近づいて見るとみなタイルを貼ってある。河合の説明だと、あれは中国産の皿や茶碗《ちやわん》のかけらだそうだ。余り敬虔《けいけん》な感じはしない。そしてメコン支流の名も知れぬ流れと沼、水路《クリーク》、橋、舟。舟は住民の足らしい。見ていると、自動車より余程快適な乗物だ。埃りまみれの車に疲れてくると、うらやましくなる。不思議と、木炭をよく見かける。暑いし、どうしてと思うが、生活必需品のひとつになっているという。煮たきに使うのだろう。  夕方、車をとめていると、そんな景色の中から、とてつもなく澄んだ子供たちの唄が聞えて来たりするともういけない。日本はとうにそんな田園詩を棄てちまって、ヘドロの海へ叩きこんでるくせに、妙に望郷の念がつのってくる。 「平和ってのは、こんなもんのことさ」  想いは同じとみえ、顔中ひげもじゃの吉村が言った。或る日の夕ぐれ時だった。 「ほう、平和に飽きたんじゃなかったのか」  河合がからかった。 「車や工場のある平和は本ものじゃないってことを言いたかったのさ」  黙って道ばたに停めたトラックの後輪によりかかっていたナムが、急に体を起して鋭い声で言った。 「やめてください。僕は悲しくなります」  白けて、みんなしいんとなる。もうこのごろでは、誰もかも、いちばんとし下のナムに二目も三目も置くようになっている。そいつが珍らしく怒りだしたのだ。 「車も欲しい、工場も欲しい。そうなのです。飽きるほど平和にひたってみたいのです。あなたがたのヘドロがどんなものか知りません。でも、友達や肉親の死骸よりはいいはずです。山の上で昼間オーイと怒鳴って、どこからも弾丸のとんでこない暮しがしてみたいのです。みんなそれを夢にみています。知らない奴が、縁もゆかりもないくせに、ナパームやボール爆弾をふりまいているんですよ。奴らそれでいったい何の得をするというのですか。作りすぎた弾丸を、僕らの体に撃ちこんで始末しているのではないですか」  若いだけに激して、おさえがきかなくなって、あとはフランス語まじりで判らなくなってしまう。わけが判らないまま、村長がナムをかばうように、片膝ついた姿勢で日本人たちを睨みつける。  誰も、何も、弁解ひとつ言えるわけがなかった。黙りこくって、うつむいて、生きているのが恥かしいと、ただそれだけを考えていた。  どこの鴉《からす》も同じような鳴き方をして、落ちた夕陽が西の森を赤く染めていた。 「見ろよ、あれを……」  吉村が、のんびりした口調で本道をすっとばして行く黒塗りの乗用車を指さした。  それは昼ちょっとすぎのことで、一行は本道をそれ、ひとやすみしている時だった。道がせまく、片側が川になっているので道ばたに停められなかったので、やむなく山に入る脇道へそれたのだ。河合がひどい下痢をはじめ、薬科大出の吉村が、どうやらアメーバー赤痢らしいとみたてたからだ。とにかくひとやすみする必要があった。 「どうしたんだ」  最後尾の車で河合の面倒を見ていた矢部が訊ねた。 「なんだか知らねえが、落し物でもしたみたいだぜ。凄い勢いで引っ返して行きやがったよ」  聞きつけて、ナムが下の本道をのぞきに来た。 「さっき通った乗用車ですか」 「ああ、古いシボレーだ」  ナムはじっと考え込んでいたが、急にその樹木がおおいかぶさるようになっている脇道を駆け降りて行った。道がうねうね曲っているので、すぐ姿が見えなくなる。それを見送った村長が、物問いたげに吉村を見た。 「どうしたんだろう」  矢部は少し不安な気持になっていた。それが敏感に、みんなの表情に反映して行く。一ヶ所に集まって、じっとナムの帰りを待っている。  ナムは戻って来るとすぐ、村長に何か命令した。村長が道の上のほうへ駆け出そうとすると、叱りつけるような声でまた何か言う。村長は引っ返すと先頭の車にとびついて、自分にあてがわれたショットガンをつかんで出直す。 「ずっとつけられていたらしいですね」 「つけられてた……」 「かなりの距離を置いてつけていたのでしょう。いくら行っても僕らの姿がつかめないので、あわてて探しているような様子です。だいぶ向うで停っています」 「また来るかな」 「今度はゆっくり脇道を調べながら進むでしょう。もしかすると、そのうしろに見えていたワーゲンのトラックも仲間かもしれませんね」  村長が坂の上から大声で何か喚いた。ナムは首をすくめる。 「この道はすぐ車が通れない幅になってしまうそうです」 「どうする、大将」  高木が言った。 「引っ返して今のうち本道を突っ走るか」  と吉村。 「まずいな。下手すりゃ出会いがしらってことになりかねない。……よし。一応車を奥へ持って行こう。何か起ってもここで結着をつけるよりあるまい」  矢部が先頭、吉村がまん中、高木がいちばんうしろのトラックに散って、すぐエンジンをふかす。ナムは機敏に例のでっかいB・A・Rを持ち出して村長と坂を下りて行く。  その道はもうひと曲りしたところで、何に使う小屋かひどく簡単に組み立てた小屋へ突き当り、あとは杣道《そまみち》程度の細い道になっていた。 「こいつはまずいや」  矢部は弾をひとつかみポケットへ突っこむと、レボルヴァーを握ってそう言った。 「よくねえ場所だよまったく。ひと気のない山ン中と来やがら。山賊にやられるにはもって来いだぜ」  吉村があいづちをうち、高木は眼を血走らせた河合と並んで車から降りるところだった。 「カポネはここにいてくれ」 「たかが下痢さ」  河合は不服そうに言う。 「うしろへまわられたらどうする。トラックを守るのがあんたの役だ」  矢部はそう言いすてて坂道を小ばしりに下りはじめた。  その時だった。いきなり下で乾いた連射音が響いた。 「いけねえ、始まりやがった」  矢部は脚がやたら交互に入れかわるだけで、ちっとも前へ進まないような気分だった。視界が大きく揺れ、頬《ほお》の肉がそのたびに震えるのが判る。  角を曲るとたん、すぐ前に村長がうずくまっていて、ずっと下で赤い色が鋭く明滅した。とっさに止まろうとしても足が言うことを聞かない。転がって、転がったまんま道をそれると急な斜面の繁みにとび込んだ。誰かが大声をあげその背後を駆け抜けて行ったような気がした。  矢部はだいぶ転がった。というよりはすべり落ちた。やっと両方の爪さきを土にめりこませて体を支えると、細い木の根っこにつかまって、今度はあがくように道へ這いのぼりはじめる。銃声がめちゃくちゃに入り乱れていた。ボワァン、ボワァン……なんだかひどく丸っこい大きな音が二度聞えたとき、矢部はやっと道へ首をのぞかせた。村長が太い棒で黒いかたまりを撲りつけているのが、スロービデオを見ているように思えた。しかし、あとでどう考えても不思議だったのは、そいつを目の前で見たはずなのに、現場は十四、五メートルも下のところだったことだ。  エンジンをふかす音、ブレーキの軋み、連射音……そして静かになった。それがあんまり急な静けさで、矢部はつんぼになったのかとうたぐった。だが、風の鳴る音が聞えていた。  村長が突っ立っている所へ、ナムが腰だめで姿を現わした。矢部はレボルヴァーを当てもなく突き出しながらそのほうへ近寄った。どこをどうしたのか、高木がいちばん下からグリースガンのストックを脇の下にあてがい、左手でマガジンを入れかえながら現われた。 「みろ、勝ったぜ」  大声で怒鳴る。だが足もとに転がってる吉村に気づくと、ギョッとして立ちすくんだ。 「吉村。おい、吉村……」  ナムは静かに降りて行く。村長が赤く染った吉村のシャツをそっとつまみ、そばに立った矢部をみあげて、ゆっくりと首を左右に振った。 「ヒゲ、しっかりしろ」  かがみこんで言うと、いつもとちっとも変らない眼の色で見返した。舌をなめ、「並んでたたかったぜ。あのベトナム人と。俺、馬鹿か。でも、いいやな。あんとき……何が何でもあいつと並んで撃ちたかったんだ」  村長は近くに転がった男の死体をふたつ指し、その指をそのまんま吉村に向けて見せた。 「二人殺ったのか」  吉村は片頬だけ、かすかに歪めてみせた。猪突猛進《ちよとつもうしん》……矢部のうしろを気違いのように駆け降り、相手の火線へ胸を突き出しながら二対一の相撃ちをやったのだ。 「手をかして下さい」  ナムが呼んでいた。高木と矢部は急いで立ちあがった。 「すぐ来るからな」  二人いっしょに言い、駆けおりた。 「車を押してください」  ナムがそういうので二人があと押しすると、ナムは器用にハンドルを切って道に直角に持って行き、自分もうしろへまわって、少し高くなった路肩を越えさせた。死骸をひとつのせたままの車はゆっくりと道をそれ、ザブンと川の中へ落ちた。 「吉村がやられてる」  するとナムはあいまいな表情でうなずいた。 「気の毒です。でもあんなたたかいはありません。あれでは自殺です」 「なにィ」  高木は赤くなった。「おまえと並んでたたかいたかったからだって言ってるんだぞ」  ナムはびっくりしたように眉をつりあげた。 「みんないっしょにたたかいました」  弁解するように慌《あわ》てていう。 「並んでだ」 「並ぶのですか」 「そうだよ。並んで撃ちたかったんだ」  ナムは理解できない、といったように首を振った。 「並べません。あのとき並ぶのは無理です。来れば殺られるのは判り切っていました」 「そうじゃねえ。あいつは……」  高木はそこまで言って唇を噛《か》んだ。なぜ吉村はとび出した。どういう気持で。……そいつを説明しようとして、やっとその理屈の行きづまりに気づいたのだ。並んで撃たなくたって、いっしょにたたかえたんだ。生きのびて、勝って、そして戦友になれたんだ。なぜ並ぼうと無理をした。  ナムは戻って行く。その背中をみつめながら、 「糞。俺たちには何かが足りねえんだ。戦争に要る何かがよ」  と叩きつけるように言った。  吉村はそれから十五分ほどして死んだ。行きどまりの小屋の近くに埋めてみんなで手を合わせ、すぐにトラックに乗って出発した。涙を流したのは下痢をしている河合だけだった。撃ち合いを経験した高木と矢部は、どういうわけか吉村の死に対する悲しみが軽いようだった。新品のブローニング・ショットガンは使いものにならなくなっていた。矢部が聞いた大きな丸っこい発射音は村長がそいつをぶっぱなした時のもので、そのあと吉村がやった二人の内の片一方が起きあがろうとするのを、それで撲り倒したからだった。ひん曲ってしまった。矢部は、軍用銃でないと、こうもヤワなものかと呆れた。  高木はとっさに山の中へ駆けこみ、迂回して相手のうしろへ出たらしい。一人で三人殺った。背後から二人なぎ倒し、逃げようと車にのった一人も仕とめた。村長があと一人。全部で敵は六人だった勘定になる。  でも一人減って味方は五人。河合がひどい下痢をしてるから、ナムと高木と矢部が三台のトラックをころがさなければならない。ナムと村長が先頭で高木が一人でまん中。うしろは矢部と河合だ。今度はフルバックに重荷がかかっている。つけられているのがはっきりしたからだ。  敵の正体はつかめない。ナムがだいたいの想像を言ってくれるのを鵜《う》のみにするだけだ。それによると、死体のひとつがAK47というソ連製の突撃銃《アサルト・ライフル》を持っていたから、多分この地方の密買組織らしいということだ。ラオスでもベトナムでも、北側にそれが流れこんでいるそうだ。米勢力下のタイで、その銃がなぜ地元を意味するのか訊ねたら、この辺りはもうそっちの勢力圏内だと言われて矢部は目を剥《む》いてしまった。  つまり、地下は北が浸透してかなりの力をふるっているらしい。もちろん北といっても、はっきり政治的な立場をとっている連中ではない。しかし、ラオスやカンボジアやベトナムから押し出された連中が長いことかけてこの辺りの地下組織を握ってしまったのだ。戦争につきものの闇商売……その西側にひらいた窓口がこの辺りなのだ。そこでは戦争に追いまくられて、図太くたくましく、そして悪賢くならざるを得なかった人々が、敵も味方もなく入り乱れ、平和を約束するタイのルールに地上では従いながら、地下で彼らなりの稼ぎをしているらしい。  戦争の余波でタイ国国境部にできたハレモノ。そこへ日本ルートをもうひとつまぎれこませる……矢部はやっと自分達の仕事の全貌が掴めた思いだった。米国製の銃とソ連製、中共製の銃が見さかいなく入り混っている地域……それがいま走っているところだった。  その日の夕方。 「タタタタタッと、こうかまえて撃ってるとき俺は判ったんだ。こいつは写真とおんなじだよ」  高木が河原にとめたトラックの傍で、河合に説明していた。グリースガンをかかえている。 「シャッターチャンスってあるだろう。あれさ。無意識に押して、カシャッと鳴ったとき撮れたというたしかな手ごたえがある。そいつとそっくりなんだ。当って相手が倒れたから当ったと思うんじゃない。引金に力をいれる瞬間そう思うんだ。カメラとこいつがおんなじだなんて考えてもみなかったさ。でも、俺は面白くなったね。今度あんなことがあったらうんといい写真をとってやるぜ」 「そいつはつまり、たくさん殺すってことかい」  河合はしかめ面で言った。腹が痛いせいか人殺しがいやなのか、はっきりしなかった。  終点へついて一杯やっている。何だかだあったが、日本人三人とベトナム人一人がうすぐらい電灯の下でテーブルをかこんでいる。アルマイトのやかんに日本酒が入っていて、厚手のコップで呑んでいる。もてなしているのは三十二か三ぐらいの男だ。 「池袋の景気はどうですか」  まるで日本人にしか見えない。言葉も難くせのつけようがない。 「いつまでいたの」  と河合が訊ねる。すっかり陽やけして、このほうはタイ人とちょっと見わけがつけにくくなっている。 「おととしですよ、こっちへ来たのは」  鄭はこのブンサイ村で雑貨商をやっているが、その前は池袋のパチンコ屋をまかされていたという。ナムは酒が嫌いらしく、ベトナム醤油《ニヨクマム》をかけた飯をうまそうにぱくついている。ニョクマムの匂いがあたりにたちこめている。 「こう言っちゃ何だが、華僑《かきよう》ってのはすごい動き方をするんだな」  矢部はあのパチンコ屋の二階で会った老人を思い出しながら、感にたえない、といった面持ちで言った。 「そんなことはないですよ」  鄭は上機嫌だった。「ウチみたいにあちこち動かされる一族はやはりそう多くありませんね。何しろ古い家だもんですから」  ……つまり、華僑として中国本土を出てからの歴史がひどく古いということらしかった。  しばらくそのことで話がはずんだあと、鄭は紙きれをシャツの胸ポケットから出して、「そうそう。もう一人の人のことですが」  と神妙な顔で言った。ちょっとフランキー堺に似ていて、そんな表情をしてもどことなく陽気だ。 「もう一人の……関口伸介のことか」  みんながさっと顔をあげ、鄭を見守った。 「コンケンで亡くなった人ですけど、あれは犯人がつかまりましたよ。……ソムソンという札つきのやくざです」 「やはりあの連中の一味か」 「とんでもない」  鄭は大きく手を左右に振り、「コンケンは別な組織が握っている土地です。ただの喧嘩だったんですよ。犯人がそう白状したそうです。……しかし、この土地の組織がみなさんを狙うなんて、どうも変ですね。そんなことする筈がないのに」  と首をひねった。 「なぜする筈がないのですか。チャムロンさんは多分そうだろうと言っていましたよ」  ナムが言った。 「チャムロンは知らないんです。あいつが出たあとで、こっちで話がついたんですからね。金もかかったし時間もかけましたが、それでなんとか筋をとおして大物を納得させたんです。今までのルートを荒しはしないし、ここで買付けもしないんだからとね」 「すると何者だろう」  赤い顔をした高木が、またコップにやかんの酒をつぎながら訊ねる。 「いいじゃないですか。この次までに調べあげますよ」  鄭は気楽そうだ。「一キロさきがメコンです。もうこの辺じゃ手出しする者はいませんし、よそ者が来ればすぐ報らせが入る仕組みになっていますから」 「メコンを渡って来る人たちを知っているのですか」  ナムが訊ねる。 「今度の取引でですか。いいえ、会ったことないです。でも土地の連中によく知っている者がたくさんあります。蛇男とか言ってね」 「スネイクマン……。蛇将軍のことですか」 「さあ、みんな蛇男といってます。人気があるんですよ、年輩の連中には」 「それではきっと蛇将軍のことです」  ナムは緊張しているようだった。 「蛇将軍というのは……」  矢部がナムに言った。 「もうだいぶ年寄りのはずですが、戦争の名人だそうです。ホー・チミンやパテト・ラオやスヴァナ・プーマも、みんな力をかりたそうです。日本人だというのが伝説のようになっています」  しいんとしてしまった。高木まで酔いがさめた顔をしている。 「蛇というのはね」  しばらくして河合が言った。「俺もはじめ変に思ったんだが、この国じゃ親しみのある名前なんだぜ。食ってうまいし、日本みたいにこわがらない。小さいときからご馳走ぐらいに思ってるんだ。その蛇将軍とかって名前は、だから愛称のはずだよ」 「どのくらいの人数で河を渡って来ますか」  とナム。 「さあねえ」  鄭はこうなると頼りない。 「このあたりの人の力を借りられますか」 「あんたのいう意味は、その……用心棒ということかな」 「はい」 「そうだねえ……」  鄭は考え込む。 「ひょっとすると、敵はとんでもない連中かも知れませんよ」  とんでもない敵。ナムだけが予想したその敵は、夜に蛇将軍が来ることになっている日の昼間、どこからとも知れず一発だけ撃って来た。  よく晴れた日で、矢部と高木が最後の下検分にメコン川の川岸へ歩いて行った時だった。堤防も何もない、いきなりでかい川が光っているまっ平らな場所に、腰のあたりまで草が茂っていた。 「どピーカンだな」  高木がいうように、雲ひとつない日だった。腰のベルトに吉村の持っていたオートマチックをはさんで、思いきり両手を空にさしあげて伸びをしてみせた。  急に「ウッ」という妙な声をだし、どこかで、トーン、という棒で蒲団《ふとん》を叩くような音がひとつ聞えた。高木はよろよろとふたあしばかりよろけ、草の中へそのままあおむけに倒れこんだ。胸の赤いかたまりが、どんどんでかくなっていく。  矢部はやっと気がついてその横へ伏せた。狙撃されたのだ。 「写されちまったよ」  そう言い残して、カメラマンはガクリと首を曲げた。右を下にしたその左頬に虻《あぶ》がとまり、矢部は無意識に追いはらっていた。はじめて、関口のときも、吉村のときも出さなかった涙が出た。鼻さきの黒い土の匂いが、ふと大学のグランドを思い起させた。  月夜だった。矢部のそばに、ナムと河合だけがいた。高木が殺られたすぐ近くの草むらで、じっとしゃがんで待ち続けている。チャムロンも家へ帰って出てこない。鄭はトラックに積んできた荷のある小屋を見張っているだろう。結局、土地の人間の力は借りられないことが判って三人だけになってしまったのだ。  風が草を揺らし、銃を掴んでいる掌がじっとりと汗ばんでいた。  そこからさきは小さな沼が到るところにある湿地帯で、うっかり歩くと足をとられてしまう。ここは水が増せばすぐ川になる部分だ。 「俺、おりる」  突然河合が言い出した。 「馬鹿。何を今さら……」 「死にたかねえよ」  河合の声は震えていた。「みんな死ぬじゃねえか。もういやだ」 「こいつ、臆病風《おくびようかぜ》か」 「どうとでも言え。好きこのんで死にたくねえだけさ」 「誰も好きで死ぬ人はいません」  ナムが言った。みんなごく低い声。ささやいて、こんなきわどいところへ来てから、帰る帰らないの言い合いがはじまっている。 「とにかくおろしてもらうよ。権利はあるはずだぜ」  震え声で、もそもそとあとずさりはじめた。ナムがほんの少し動いた。河合が静かになり、気がつくとブラック・ブレードのナイフが喉のあたりにつきつけてあった。 「三人死んでいます。もう権利はありませんよ」  静かな冷たい言い方だった。 「たのむ。変なこと言わないでくれ。ナムに恥かしいと思わないのか。日本人だろ」  河合は体中の力を抜き、すすりあげた。 「テレビのCMはもう秋物をやってるころだ。俺はやっぱりプリント生地を売ってたほうが性に合うんだ。いやだよ、もう。ほんとに殺し合いがあるなんて思いもしなかったんだ。少し勇ましい恰好をしたかっただけだ。助けてくれよ。見のがしてくれよ」  ナムはナイフを引き、吐きだすようにベトナム語らしい短い単語を言った。 「もう蛇将軍がそこまで来てる。会えば終りだよ」 「無事に納まるもんか。ナムがそう言ったじゃないか。蛇将軍が来るとなると、相手はソ連かも知れねえって……。そうさ。そうにきまってら。AK47って銃はソ連のだ。俺たちはとんでもねえでけえのにまきこまれちまったんだ。ソ連じゃどうしようもねえ」  北が日本とのパイプを作りたがったとき、いちばん心配したのはソ連側の出方だという話を、ナムは香港の李から聞いて知っていた。中共はたとえ反対しても手出しすることはないが、ソ連が知れば黙っていない。中共側とコミの動きだと思うからだ。といって中共と関係ありませんと断わるわけにもいかない。だんまり劇の苦しいところだ。  それを聞いて河合はブルってしまったらしいのだ。イキガリがさめたところへ、一流プロでなきや出来ない芸の遠距離狙撃で高木がやられた。我慢してここまで来たが、もう恥も外聞もなくなって、とうとうおりると言い出したのだ。  勝手にしろ……。むしょうに腹が立った矢部が、睨みつけながら腹の中で怒鳴っていると、ナムが何か気配を察したらしく、さっと左手を出して合図をした。  そのとたん、河合は狂ったように立ちあがると、草の上へ上体をさらして一目散に走り出した。あっ、と思ってそれを見送ったとき、意外にも川のほうから銃声がして、短い連射で河合をひっくりかえした。あたりかまわぬ絶叫が響き渡った。  ナムは矢部の腕をつかんで引っぱった。 「逃げるのです。場所を知られました」  草を揺らさぬよう注意しながら這った。少し位置を変えたとき、今度は河合が逃げようとした方向から、一斉に長い連射がはじまった。川のほうからも応戦しはじめる。ナムは中腰になって川と平行に走り出した。だいぶ遅れてあとを追った。  戦闘は川を背にしたほうが押してるらしい。どんどん村のほうへ銃声が移動する。その内二発ほど手榴弾《てりゆうだん》らしい音がして、そのあとかなり銃声は間遠になる。 「行ってみよう」  ナムとふたり、呼吸をととのえて片膝ついていた矢部が、思い切りよく低い姿勢で爆発音のほうへ走った。走ってはトライの要領で倒れこみ、様子を見てはまた走った。  川に背を向けて、小男が三人、月の光りの中に突っ立っていた。両手を頭にのせ、その前に見覚えのあるAK47をかかえた奴が中腰になっていた。矢部は夢中でそのAK47を狙って引金を絞った。無用なほど長い連射だった。相手が倒れてもまだ撃っていた。 「たたかえ、武器をとれ」  日本語で怒鳴った。もしその中に蛇将軍がいるなら、それで通じると思った。三人は敵が倒れたのを見るとあわてて地面に伏せ、足もとの武器をとりなおしたようだった。矢部はそいつらに近寄り、 「荷はついてるぞ」  と言った。いちばん近くに伏せていた一人が、むくりと体を起し、銃口を矢部に向けた。AK47だった。  真正面に火の色が見えた。すぐうしろでも銃声がした。矢部は高木のだったグリースガンを放して、一度持ちあげられるようにふっとんでいた。体が半分泥に埋まり、それっきり意識がなくなった。  気がついたとき、あたりは白じらと明けかけていた。ナムがすぐそばにうつぶせになっていた。 「気がつきましたね」  弱々しい声で言った。 「蛇将軍は……」 「判りません。それに、来たのが本当に蛇将軍かどうかもね」 「やられてるのか」 「ええ。動けないんです」 「朝だな」 「そうですよ。でも、なんだって東京はあなた方みたいな人を寄越したのでしょうね」 「なぜだ」 「まるでたたかえないじゃありませんか。みなさん駄目ですね」 「俺はできるだけやった」 「川へまわっていたのは敵でしたよ。受取りに来た北の人たちは村のほうにいたのです。あなたは味方を撃ち殺しただけです」 「ひどいよ。そいつはひどい……」  起きあがろうとして、激痛に見まわれた。 「駄目です。動かないでください。もう少し明るくなれば鄭さんか誰かが助けに来てくれます。それまでは……」  ナムの声がいっそう細くなり、そこで途だえた。かすかにうめきをたて、それっきり動かなくなった。  喉が渇いていた。呼吸さえしづらいほど、からからに渇いていた。そっと体を動かし、手を伸すと意外な近さで水があった。小さな沼のそばに倒れているのだ。横にやっとの思いでころがって、のたうつように体中でそのわずかな距離を移動した。目の前に蓮の葉が一枚あって、矢部はそれを額でどけて水面をひろげた。  血があらためて流れ出しはじめたのが判った。水……冷たい水。管理人のおばさん……。意識が遠のく前兆のように、後頭部に黒い幕が降りかける。それをはねのけ、水を、と思う。一度動かした小さな蓮の葉が元の位置に戻っていて、水が飲めない。葉を動かす力さえ、もうなくなっていた。ただ、じっと緑の葉を見ている。  さっと陽がさし、その緑がいっそう鮮やかになった。葉のまん中に、朝露がひと粒宿り、それがキラリと反射した。  北珊瑚礁《ノース・リーフ》。  それはトンキン湾の外側にある小さな珊瑚礁だった。透明なライトブルーの中に、真珠の粒を置いたように光っていた。  北珊瑚礁《ノース・リーフ》。  矢部は蓮の葉の朝露をそう思って見ていた。地下鉄、ネオン、テレビ、新聞、タクシー、酒、コーヒー……。そして伸子の顔。連想が連想を呼び、やがてただひとつのことしか意識しなくなって行った。呼吸が間遠になり、ただひとつ、これで平和に戻れるのだと、そのことだけ……。ノーサイドのホイッスルが鳴ったようだった。   ジーグ・このままでしあわせなのよ  伸子はけだるい声で男を見あげていた。 「電気消してね」  美男で、年齢も幾つか彼女より下である。たっぷり汐風に焼いて来た肌の色をしているが、それでいて繊細なものを感じさせる体つきであった。抱いてもいい、と彼女が決断したのは、恐らくそうしたものを見抜いたからであろう。男は感情の行き届いた、こうした場面には申し分のない笑顔を見せてうなずき、ルームライトを消して枕もとのスタンドを小さい方に切りかえると、次の間から持って来たティッシュ・ペーパーの箱をさり気なく置いた。しっとりと情感をこめた瞳でみつめ、こめかみから顎のあたりへかけて、柔らかいタッチで指をはしらせた。  伸子自身にも説明のつかぬ心理が強く働いて、矢部に消えられてから、矢部とは別に関係を続けていた二人の男とも、意地になって絶縁してしまったのである。それは矢部に対する恨みと全く同質の感情らしく思えた。  なぜ矢部を恨むのか、それも伸子にはよく判っていない。多分自分という女を無視し、ひとことの説明もなしに失踪してしまったからだろうとは思うのだが、かと言って憎しみまでは湧いて来ないのである。  矢部のような男には無視して欲しくなかった……。矢部は彼女にとってほぼ満足できる男であり、あのあと将来性のある職にさえつけば、結婚してもよいと思っていたほどなのである。だがその彼が消える前後、そのことについて全くコミュニケーションを欠いていたことが、伸子を憎しみにまで追いこまないでいる理由であろう。  言葉の多すぎる男たち……それにくらべると矢部はかなり異質である。最後に全くコミュニケーションなしで消えたところなどは、いっそさわやかと思えるほどだった。それが、無視されても好感を持ちつづけることが出来た理由である。  男は急がない。囁《ささや》きつづけ、徐々にしか触れて来ないが、その触れ方も伸子の自尊心を充分すぎるほど計算して、恐る恐る、という感じを演出している。年下の男という役柄を意識していることを、伸子ははっきり察知している。 (私はそれほど甘くないのよ)  そう思い、男の若さや未熟さを露呈させるにはどうしたらいいか考えている。幾つかの方法が浮ぶが、年上の厚かましさを見られてはかなわないとも思う。やりすぎればかえって自分の敗けになりかねないのである。  伸子は右の太腿をひくりと痙攣《けいれん》させてみた。そして、それをおしかくしている表情をする。凄い女ぶって、そのくせ他愛もない経験しかない女……そういう手を使ったのである。案の定、男の眼と小鼻の辺りに北叟笑《ほくそえ》むような動きがあった。 (おばかさんね)  矢部のときだけは演技しないでいられたものだった。矢部の好き勝手にさせて、自分もそれで満足だった。しかし、この坊やに、そんなとって置きの遊びをさせようとも思わないしまた、それほどのことができる相手とも思えない。 (せいぜいテクニシャンぶるのね。その内マイペースで暴れだすから……)  何呼吸か乱して見せ、顔を反対へそむけて様子をうかがっている。そうすると伸子が耐えかねる反応とたたかっているように見えるのである。そして男はまさしくそう思いこみ、二人の体をおおったものの中へ首をつっこんで、右の胸に唇をあてた。伸子は自分が燃えだしていないのをさとられたくないから、脚はきちんと重ねてガードをかためてある。 「どうだい。どんな気分だい」 「うまくいったじゃないか。どこへも影響を与えずにテストできたものな」 「その腕なら進化プログラマーにだってなれるぜ」 「言ってたとおり、動物的側面が甘やかされてたろう」 「まったくだ。いまのデータをつけて微修正を要請しなくてはならないな」 「どんな修正のし方をしてくると思う」 「さあな。もう一度この前のような危機を与えるか」 「そいつはちょっと大仕事になるな。今の状況であそこにこの前の時のような危機を与えると、この世界全体に波及しちまうよ」 「まあ、そいつはプログラマーにまかせとこう。腕前拝見だ」 「しかし見かけよりずっと脆《もろ》かったな」  思ったよりずっと脆かった。伸子の中に入って来てから、男は彼女にいいように翻弄《ほんろう》され、いまはぐったりと力を抜いてのしかかっている。それを左手に力をいれて突き落すようにシーツの上へ戻してやる。 (少しやりすぎたようだわ。二度目は丁度よくなるんじゃないかしら)  伸子は自分の内部の変化も計算にいれ、少し柔らいだ気分でそう考える。やはり昂《たかぶ》って、愉しみたい気分が強くなっているのであろう。 「この次はうまくいくよ。この弧状列島がうまくいかないと困るからな」 「まったくだ。ここまで育ったのを駄目にしたくないもんだ」 「その心配はないだろう。ここのプログラムはしっかりしてるよ」 「さて、それじゃデータを送るとするか」 「そうしよう」 「そうしよう」  三度目のとき、伸子がいっしょに風呂に入らないかと誘うと、男はそう言って勢いよくベッドをとびおり、全裸のまま走って行った。まるで子供じみた仕草が可愛らしかった。もう演技はすててしまったのであろう。  そのあと、男は若さにまかせてもう一度挑み、それもあっさりダウンさせられて睡ってしまった。伸子は時々タクシーのクラクションが聞える部屋の中で、そのたたかいの勝利と、自分のたのもしい力をしばらくの間讃美しつづけていた。  うつらうつらしていたつもりだったけれど、気づくと窓から明るい光りが入って来ていて、男の体がのしかかっていた。 「先に帰るよ」  そう言って男はしっかりとした瞳で伸子を見据え、烈しく運動した。気づいたときすでに燃えあがっていて、寝顔さえのぞかれていたのを知ると、不意に彼女の口から愉悦の声が挙った。  男が動くたび、深いところで痛みに似た感覚が起こり、そのたびに伸子はあられもないうめき声を発した。そしてその声が深いところヘフィードバックし、いっそう高い嬉声となった。男は驚異的な持続をみせ、二度三度と彼女を舞いあがらせるのであった。 「さよなら……」  気がるく別れを言い、男が服を着て出て行ったあと、伸子はまた睡ってしまった。  そして次に目覚めたとき、体中にこころよいけだるさが溢《あふ》れていた。  腹這いになって煙草をつけ、深く吸いこんで吐く……。指の先までしびれていくような平和な感覚にひたりながら、伸子はそう思った。  当分このままでいいわ。このままでしあわせなのよ……。  太平記異聞  元弘三年二月の十六日、大塔宮《だいとうのみや》が籠られた吉野の城は、六万余騎の軍勢にとり囲まれ、風前のともしびに思えた。いかに山が嶮《けわ》しく道が細かろうと、これほどの軍勢が押し寄せれば、山をならし道をひろげ、菜摘川《なつみがわ》の流れさえいくさの都合のよいように変えるのは、わけもないように思えるのだった。  攻め手の大軍は陣を敷くのにまる二日を要し、初矢を射込んだのは十八日の朝日が昇ってからであった。以後まる七昼夜、城方必死の防戦がくりひろげられたが、寄せ手の中に吉野|金峰山寺《きんぷせんじ》の執行《しゆぎよう》 岩菊丸《いわきくまる》というこの山の地理に明るい者がいて、勝手知った山道を金峰山まで迂回《うかい》し、夜があけると愛染堂あたりから馳せくだって火を放ち、そのためついに勝敗が明らかになった。  このとき大塔宮は村上彦四郎|義光《よしてる》とその一子 兵衛蔵人義隆《ひようえのくろうどよしたか》などの凄《すさ》まじいたたかいぶりに助けられて、無事高野山へお遁《のが》れになったのであるが、寄せ手の大将二階堂|出羽《でわの》 入道道蘊《にゆうどうどううん》は、その勢いを駆って八十万の大軍が囲む千劒破《ちはは》の城攻めに加わったのである。それに加えて赤坂城を陥した阿曾弾正《あそのだんじよう》 少弼《しようひつ》までが千劒破攻めに馳せ参じ、そのため寄せ手の数は百万余騎になってしまった。  しかし、城に籠る大将 楠《くすのき》 多聞兵衛《たもんのひようえ》 正成《まさしげ》は、敏達《びたつ》天皇四代の皇孫、井手左大臣《いでのさだいじん》 橘《たちばなの》 諸兄《もろえ》公の子孫で、武略・智謀にことのほかすぐれ、その上大胆不敵の豪の者であったから、この未曾有の大軍を迎えていささかも動じない様子であった。  それにひきかえ寄せ手の側は、味方の数があまりにも多いことにかえって浮き立ってしまい、無用に功を焦って満足な備えもないまま、われがちに城門へ攻め登って行ったので、まんまと 楠方《くすのきがた》の策にはまり、櫓《やぐら》の上から投げおろす大石に追い散らされて、四方の坂をころげ落ちる態《さま》であった。  軍奉行《いくさぶぎよう》 長崎四郎|左衛門尉《さえもんのじよう》が、緒戦の死傷者を数えてみると、一日ごとに五、六千もの損害が出ていることが判り、あまりのことに、大将の下知なく攻め進む者は処罰するという触れが出された。  そこで合戦は一時中断したが、何せ千劒破の城は高さ二町、周囲一里ほどの小城で、そのような小さな山の上に用水があろうとは思われず、赤坂、吉野に引きつづいて、すぐにも落城かと見えた。  しかし、楠正成ほどの者がここに城を築いたのは、山中に一夜五石の水をしたたらせる秘水があったからである。楠方の防戦はまことに見事で、名越《なごや》越前守などは油断したところを逆に討って出られて旗じるしなどを奪われるていたらくであった。  楠の智謀がひとかたでないのを悟った寄せ手は討って出る者もなくなり、両軍は合戦もなくただ睨み合うかたちとなった。  城内の兵はいざ知らず、寄せ手の大軍はすぐに退屈して、諸将の陣へ寄び集めた遊女たちの嬌声でたちまちにぎやかになった。  名越《なごや》 遠江入道《とうとおみのにゆうどう》 とその甥の兵庫助が双六の賽《さい》の目のことから争って、互いに刺し違えて死ぬという騒動が起ったのも、このときの浮かれ切った陣内でのことである。伯父甥双方の郎党どもがこの争いで同士討ちとなり、およそ二百人が死ぬという前代未聞の愚行であった。  そのような乱れた寄手の陣であったから、夜ばかりか昼までも、女を求めてぬけだす者があとをたたず、またそれを厳しく制止する者もいなかった。  また、この噂《うわさ》を聞いて多くの遊女たちが千劒破の城のあたりへ集ってきた。諸大将の陣に招き入れられたのは、身につけるものも際だって見え、容姿もすぐれた者が多かったが、そこここの谷間や樹かげに二、三人ずつ力を合わせて粗末な小屋を掘り立てた女たちの中には、汚れ切って年さえさだかでない者がいた。それでも雑兵たちは、そういう小屋にむらがり寄って、日がな一日順番を待つことさえ珍しくなかった。  ここに相模国《さがみのくに》の住人本間十兵衛|秀貞《ひでさだ》という若武者がいて、阿曾弾正少弼に従って赤坂攻めに加わり、後詰めとしてこの合戦の後方で一隊を率いていた。  十兵衛秀貞は武勇に優れていたが決して粗暴な人物ではなく、為体の知れぬ汚れ遊女など買う気もなかったが、郎党の一人で大野《おおのの》孫平という者が、あるじの退屈を紛らわせようと、ふと洩らした噂ばなしに心を魅かれた。  軍兵の影もまばらな、もっと後方の下川という小川のほとりに、一人の並はずれてみめよい遊女が、いつの間にかひっそりと小屋をたてて日を送っているというのである。しかも、孫平が言うには、どうやらその女は雑兵には見向きもせず、噂を聞いて然《しか》るべき鎧武者《よろいむしや》が行っても、ちらりと顔を見せるだけで、春をひさごうとする風もないというのであった。しかも、力ずくで押し倒してくれようと出掛けるものがいても、いざその段になると、あまりの気高い美しさに気おされて、すごすごと引きさがるばかりだという。  秀貞は連歌などにもひとかたでないたしなみのある人物だったから、その謎めいた美女を是非ひと目見たくなり、孫平を道案内にして、その小川のほとりへ行って見た。  小屋は野伏《のぶせ》りの者が作るような、ごく粗末なものであったが、自慢の山鳥栗毛の馬にうち乗った秀貞が近付いて行くと、女がそっと白い顔をのぞかせて、秀貞をみつめたようであった。  秀貞は、あまりの美しさに我を忘れて馬からとびおり、一夜を共にしたいものだと、鄭重な言葉づかいで女に言った。女は答えずに小屋の中へ姿を消したが、どうやら承諾した様子に思えたので、秀貞は冑《かぶと》の忍び緒を解いて孫平に預け、腰をかがめて小屋の中へ入って行った。  外に残された孫平は、秀貞より五歳ほど年上で、山鳥栗毛を小屋のそばの木につないで草をはませ、わがあるじの首尾やいかにと、顔ほころばせていた。  小屋の中でどのような語らいが続いているのか判らなかったが、ときどき女のひめやかな笑い声などが洩れ聞えて、秀貞が女の気に入られたらしいことだけはよく判った。  長いあいだ睦《むつ》み合う気配は起らず、ただ喋々《ちようちよう》 喃々《なんなん》とした語らいが続いているようだったが、やがて陽が落ちかかると小屋の中で鎧のすれる音が聞え、白い手がのぞいて外の土の上へそっと喉輪《のどわ》を置いて引っ込んだ。孫平は主人が鎧を外しはじめたと悟って、足音を忍ばせて近寄り、それを自分が坐っていた草むらのあたりへ運んで来た。すぐに、次々と鎧の各部が外されて小屋の外に出され、秀貞は身がるな姿になっていくようであった。そのたびに孫平は自分のいる草むらへ運んで来て、いつでも着付けられるように並べて置いたのであった。  山あいの夜は素早くひろがって、あたりは闇にとざされた。そして、闇が濃くなるにしたがって、小屋の中の女の声が高くなっていった。その声は、たとえようもなくなまめかしく、時には絶え入りそうな気配すらあった。  孫平はときどき生唾《なまつば》をのみこんでそれを聞いていた。孫平の股間の陽物は、硬く烈しく突き立って、しばしばおのれの手で慰めねばならぬほどであった。  そうこうするうちに、孫平はふと小屋の中の睦み合いが、尋常でなく長びいていることに気付いた。男はやがて果てるものである。とすれば、あるじの秀貞はとほうもない力を発揮して女を喜ばせつづけていることになるのだ。孫平の好奇心が燃えあがり、遂にそれは主従の垣をこえさせるまでになってしまった。  月が昇ったとき、孫平はしのび足で小屋に近寄っていた。  男も女も、すでに丸はだかであった。女の白い体がふしぎなほどのしなやかさで、男の四肢にからみついていた。男は上からおのれを押しこみつづけ、女はその体を煽《あお》りあげるように腰を動かしていた。  甘美な呻きと荒々しい息づかいを耳にしながら、孫平は二人のまうしろからのぞいていた。すると、秀貞も少しずつ呻《うめ》きを発しはじめたのである。 「とろけるぞ。とろけるぞ」  秀貞はときどきそう言い、いっそう深く腰を沈めるのだった。その腰はもののたとえではなく、本当に少しずつ深く沈んでいたようだ。女は際限もなくおのれの女陰に秀貞を迎えいれ、甘く喘ぎながらずぶりと秀貞の腰のあたりへ柔襞《やわはだ》を吸いつかせた。秀貞の堅くしまった双つの尻の肉が、ひと動きごとにその女陰に沈み込んでいった。  秀貞はそれでもやめようとしなかった。みずから動き、両膝を折って呑み込ませてしまった。いまや秀貞は沼にはまった人のように、下半身を女の女陰にめり込ませ、上体だけを揺り動かして愉悦を訴えている。その上体さえ、ジリッ、ジリッと一寸きざみに女陰へめり込んでいき、やがてびらびらとした女陰の襞が、愛撫《あいぶ》するように秀貞の腹から胸のあたりをうごめいた。  秀貞は肩を左右にまわし、或いは首を前後に振って、おのれの全身が一個の陽物と化したように、女陰にひたりこんで陶然としている。 「ああ、首だ。首まで来たぞ」  秀貞は甘美な声でそう言った。両手をあげておのれの顔の前にある、女の恥毛の茂みをまさぐっている。 「ああ、そのようになされては」  女はそれがたまらぬらしく、背と踵で体を支えてそり反った。秀貞はその股間から頭だけ突きだして、顎《あご》のあたりまで柔襞に埋めていた。ぴしゃぴしゃという音がして、秀貞が女陰の上端を噛《か》むように咥《くわ》えているのが判った。女はいっそう悶え、すすり泣いていた。  すでに両腕は女陰の中にあった。 「そこを、中からもっと……」  秀貞が女の肉の内側を掻き撫でているらしく、女は身をよじらせて言った。 「行くぞ。行くぞ……」  秀貞は一度浮きあがるように頭をあげたかと思うと、そう喚いて一気に女体の中へ没していった。女陰は長いあいだの悦楽にゆるみきって、しどけなく孫平の目前で口をあけていた。  そして、その中から、秀貞の右手がさしのべられていて、内側から手だけが、さもいとおしそうに、女陰の周辺をいつまでもいつまでもまさぐっていた。  多分秀貞が中で体をふるわせるのだろうか。女はぐったりとしながら、ときどき甘く叫んで体を硬くさせ、またぐったりと息を抜くのであった。  それは孫平にとって、男と女の交わりの至上の姿であるように思えた。おそろしいと思うどころか、ねたましさで胸がいっぱいであった。しかもその甘美な光景に煽りたてられて、男の精がしとどに股間を濡らしていた。  孫平はおのれが交わったかのようにぐったりとなり、元の草むらへ行くと、そこに倒れ込んで引き込まれるように睡ってしまった。  翌朝、孫平は目ざめると同時にその小屋へ駆け入った。だが秀貞はもちろん、女の姿も消えてしまっていた。  孫平は秀貞が女体に呑み込まれてしまう有様を、まざまざと思い出した。その女のもとへ案内したのは彼自身なのであった。このままにして置けば、相模国の住人本間十兵衛秀貞は、敵を前にして逃亡したと言われかねなかった。さりとてありのままを言えば、合戦の場で女陰に呑みこまれたと、これまた武士の名をけがすことになってしまう。  孫平は朝日の中で、草むらに並べておいた鎧冑《よろいかぶと》をひとつひとつつけはじめた。やがて孫平は秀貞が自慢の山鳥栗毛にうちのると、諸将の陣を駆け抜けて、一気に千劒破の城の城門へ駆け登った。  この様子を見て、遊び倦きた武者どもが、どっとあとに続いたが、鹿角《ろつかく》の前立て打った冑に小桜縅《こざくらおどし》の大鎧、山鳥栗毛の駿馬にうちまたがった大野孫平は、その先頭で引かばこそ、全身針鼠のように矢を突き立たせてなお城壁にとりつき、遂に油火をうちかけられて火だるまとなって討死したという。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 角川文庫『およね平吉時穴道行』昭和51年8月15日初版発行                昭和54年5月30日7版発行